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【第100回箱根駅伝・今昔の思い】法政大学・坪田智夫監督 かつて2区のエースは箱根に9年連続で導く名監督に (2ページ目)

  • 牧野 豊/取材・文・写真 Text by Makino Yutaka

――いきなり山上りで、実際走ってみた感想は?

「沿道からの声援が絶えず続いていましたし、大きな大会なんだと実感しました。私自身、インターハイには出ましたが、全国高校駅伝には出たことがなかったので、正直(応援のすごさに)何が起こったのか分からず戸惑った部分もありました。高校時代までは楽しく走っている感じで競技してきた人間なので、そこに立ったときの衝撃はすごい大きかったのは覚えています」

――結果は、区間14位と苦しい結果になりました。

「当時の出場校は15校、後ろの選手が脱水症状だったから14位になったような感じでしたが、あれだけ走れなかったのは、たぶん緊張していたんだと思います」

――1回走ったら、箱根駅伝への考え方は変わりましたか。2年目はケガで予選会に出場できず、チームも本戦出場を逃しました。

「1回走れてしまったので、今度もスムーズに行けるものなのか、みたいに考えていたのが、2年目の失敗につながったと思います。予選会の厳しさや本戦でシードを取ることの大変さなど全く分からなかったので、2年目以降も普通にやればいけるくらいに感じていました。最初の2年間は、申し訳ないんですけど、遊びの延長のような捉え方でした。ただ、2年目に予選会に出られず、チームも落ちてから意識は変わりました」

――悔しさが沸いてきた。

「今の選手たちにも話すんですけど、2年目の時は、本戦で黄色のジャケットを着て補助員をやったんです。鶴見の中継所(1区→2区)だったと思いますが、日本大の山本佑樹(明治大前駅伝監督)とかが目の前を走っていく。同じ道路にいるのに、同期のライバルが全力で走っていて、自分は補助員で立っている。本当に悔しい思いをしました。競技人生の中で最初の分岐点は、その時だったと思います」

――3、4年時は本戦でエース区間の2区を走り、区間3位、そして区間賞です。

「もう2年生の冬が終わった段階で、自分が2区を絶対走る、それだけの力をつけて、チームを押し上げる。任される、というより自分が走ることしか考えていませんでした」

――3年時は5人抜きを果たして区間3位でした。

「走っていてすごく気持ちよかったですね。2年前の5区では良くなかったですし、私自身、高校時代は県の駅伝大会ではすベて1区でしたので、駅伝で走者を抜く経験がこの時初めてだったからかもしれません」

――4年目は、茶髪にサングラスとその風貌でも目立った1区の徳本一善選手(現・駿河台大監督)が周囲を驚かせる"一人逃げ"で区間賞。タスキをもらった坪田監督も2区で快調な走りを見せて区間賞と、法大が大いにレースを沸かせました。

「正直、徳(本)があんなことをする(スタート直後から一人抜け出しての単独走。レース終盤に後続につかまるリスクのある走り方)とは思っていなかったです。ただ、大会前の雑誌や新聞などの展望記事では、駒大だ、順大だ、といろいろ書いてあるのを見て、くそー、と思い、2人でずっと『絶対やってやろう』と言い合ってはいました。野心しかなかった。徳(本)は12月の調子もすごく良かったので、区間賞を取ると思っていましたし、予想以上のリードを作ってタスキを渡してくれたので、単独走の方が好きな自分としては、すごく走りやすかったです」

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