【第100回箱根駅伝・今昔の思い】法政大学・坪田智夫監督 かつて2区のエースは箱根に9年連続で導く名監督に (3ページ目)
――順大や駒大が優勝候補として名前があがる中、相当なインパクトを残したと思いますが、それでも総合10位で当時はシード圏内の9位以内に入れませんでした。
「4区の途中までトップで逃げているのに、シードを落とすか......と(笑)。今だからこそ笑い話にはなりますが」
――当時の法政大はどういう雰囲気だったのですか。
「学生主導で、比較的のんびりしていました。私の前任である成田道彦さんが監督として戻ってこられたのが、私が4年の時でした。それまでの1年半くらいは指導者が不在の状態で主将が練習メニューを作っていたので、3年時の箱根駅伝が終わってからは私が担当しました。今考えると、あと1年ぐらい成田さんが早く戻ってきていたら、最後の年はシード権を取れていたんじゃないかと思います。成田さんがいたことで自分のことだけに集中できたので、区間賞も取れたと思っています。ただ、当時のチームの状況や戦力面からすれば、やるだけのことはやった結果でした。今振り返ると、徳(本)の1区一人逃げのようなことって、その後では2007年の佐藤悠基君(当時・東海大、現・SGホールディングス)くらいしか1区で大逃げした記憶にないので、インパクトは強かったですね」
――大学の4年間は、箱根駅伝とはほど良い距離感を保ちながら過ごせた印象を受けます。
「箱根駅伝は大きい目標ではあれど、チーム内でギスギスした、メンバーが誰になるのかみたいな環境下に私は置かれることはなかったですね。チームとしての目標がありつつ、自分のペースで、自分の力をつけていけた。主将として練習を組み立てる経験も、実業団に入ってからは確実に役に立ったと思います」
【9区まで3位の背中が見えたことが光明】
卒業後は当時、トップレベルの実力者ぞろいのコニカミノルタで競技活動を継続。正月の全日本実業団駅伝(ニューイヤー駅伝)のみならず、実業団3年目の2003年にはパリ世界選手権10000m日本代表になるなど、日本のトップレベルの選手として活躍した。5年目以降はケガに悩まされたが、現役生活の終盤を迎えていた2010年に母校にコーチとして戻り、2013年から監督を務めている。
――指導者として戻ってきた時のチームの印象はいかがでしたか。
「ずっと実業団の日本一のチームにいたこともあり、競技に対する意識のギャップに衝撃を受けました。当時の法政大は予選会を突破できるかできないかのレベルでしたので、その部分に対応するのに2年くらいかかりました」
――指導面ではいかがですか。
「私も未熟だったので、最初は自分のやってきたことをそのまま練習の内容に反映していたのですが、それが選手に合わずに予選会で大ゴケしました。夏合宿もしっかり走れて9月も調子が良かったのに、10月の予選会では失敗する。そこで、実業団時代のチームメイトで、東洋大の指導者として箱根駅伝で優勝も経験していた酒井俊幸監督にお願いして、8月初旬の合宿に参加させていただきました。そしたら、その時の内容が想像しているよりも負荷が軽かったんです。400mを40本くらいやっているのかと思ったら、400mは10本だけ。その翌日に30km走もやるんですが、ペースはそこまで速くない。酒井監督から『夏には夏の負荷があるから、1年間トータルで考えないとダメなのでは』と言われて、そうだなと。私自身、現役時代は体が強い方だったので、合宿でも初めからガンガン飛ばして、インターバル練習の翌日に30km走を入れるなど平気でやっていたのですが、それが学生には合わなかったことを自覚しました」
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