箱根駅伝に4回出場して赤﨑暁が手に入れたもの マラソンを走るきっかけとなった監督の言葉 (3ページ目)

  • 佐藤俊●文 text by Sato Shun
  • photo by アフロスポーツ

【好成績を収めるなか、不運に襲われる】

 最後の駅伝シーズンに突入すると、赤﨑は出雲駅伝で13位、全日本大学駅伝は33位と結果を出した。さらに箱根を走る学生が多く参加する上尾シティハーフマラソンでは日本人トップ、チームの(レメティキ・ジョセフ・)ラジニ(ケニア出身)とワンツーフィニッシュを見せ、学生トップレベルの走力を見せた。

 しかし、その直後、赤﨑を不運が襲った。

「夏合宿から本当にうまくいっていて、山下監督からも『ずっと見てきたなかで一番強い練習をしている』と言っていただいて。上尾シティハーフまでは順調だったんですけど、それが終わった直後に中足骨を痛めて10日間ほど練習を休んだんです。それからまた箱根の直前合宿に戻ったんですけど、練習を全部消化できなくて......」

 他大学からは赤﨑が1区に入ると流れが変わってくると警戒された。赤﨑も3年時の悔しさを晴らしたい気持ちがあったが、山下監督から「1区で赤﨑を使うのはもったいない。単独での走りがいいので、他の選手を1区にして、2区のラジニと3区の赤﨑で貯金を作っておきたい」と言われ、3区での起用が決まった。

 レースは1区が出遅れ、ラジニは区間2位の走りで11位まで順位を引き上げた。だが、赤﨑は故障の影響で本来の走りができず区間9位に終わり、襷を11位のまま中継した。

 

 赤﨑は、この4年時の箱根駅伝が一番印象に残っているという。

「総合13位でシード権を獲ることができなかったんですけど、4年生のレースって他のどのレースとも違うんです。最上級生で走る箱根は特別でした。自分が万全でもうちょっとしっかり走れたらシード権を獲れたんだろうなという思いがあり、悔しさという面でも忘れられない箱根になりました」

 その箱根を走った経験は、赤﨑の陸上人生にどんな影響を与えたのだろうか。

「今までいろんなレースに出てきたなかで、箱根が一番注目度が高く、応援も多かった。箱根という大きな舞台を経験したことで他のレースでは冷静でいられますし、いろんな面でプラスになりました。箱根を走ってよかったとつくづく思います」

 大学を卒業する際、山下監督には、こう激励されたという。

「最後に迷惑をかけてしまったんですけど、監督には『お前の力は、こんなもんじゃない。まだ成長する段階にいる。赤﨑ならマラソンで代表になれる』と言っていただきました。マラソンの日本代表を目指そうと思ったのは、山下監督の指導のおかけだと思っているので、なんとかそれを実現したいと思っています」

後編に続く>>MGCへ挑む赤﨑暁が「パリ五輪への気持ちは強くない」真意と倒したいライバルを語る

著者プロフィール

  • 佐藤 俊

    佐藤 俊 (さとう・しゅん)

    1963年北海道生まれ。青山学院大学経営学部卒業後、出版社を経て1993年にフリーランスに転向。現在は陸上(駅伝)、サッカー、卓球などさまざまなスポーツや、伝統芸能など幅広い分野を取材し、雑誌、WEB、新聞などに寄稿している。「宮本恒靖 学ぶ人」(文藝春秋)、「箱根0区を駆ける者たち」(幻冬舎)、「箱根奪取」(集英社)など著書多数。

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