MGCへ挑む赤﨑暁が「パリ五輪への気持ちは強くない」真意と倒したいライバルを語る
2024年パリ五輪のマラソン日本代表の座を狙う、箱根駅伝に出場した選手たちへのインタビュー。当時のエピソードやパリ五輪に向けての意気込み、"箱根"での経験が今の走り、人生にどう影響を与えているのかを聞いていく。
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パリ五輪を目指す、元・箱根駅伝の選手たち
~HAKONE to PARIS~
第22回・赤﨑暁(拓殖大学―九電工)後編
前編を読む>>箱根駅伝に4回出場して赤﨑暁が手に入れたもの マラソンを走るきっかけとなった監督の言葉赤﨑暁は福岡国際マラソン2022でMGCへの出場権を得たこの記事に関連する写真を見る
拓殖大学4年時、山下拓郎監督の下でスピード強化をはかり、学生トップクラスの走力を身に付けた赤﨑暁。
卒業後は、九州に戻り、マラソンで勝負していくために九電工に入社した。
「関西や関東の実業団からも声をかけていただいたんですが、僕にとっては地元というのが大きかったですね。それに、ちょうど大学4年の時にMGC(マラソングランドチャンピオンシップ)を見ていたんです。そこでの大塚(祥平)さんの走りを見て、九電工はマラソンに強い選手が出ているチームですし、綾部(健二)総監督の指導を受ければ、自分も大塚さんみたいに大きな舞台で戦えるのかなと思って決めました」
大学入学時には実業団で走るところまでは考えていなかった。ある時、なぜ実業団に行くのかと先輩に話を聞いた。するとその先輩は、自分の能力で大企業に就職するのは難しいので足で入るんだと答えた。自分の強みを活かして就職先を見つける。走って結果を出すのは、そういうことにつながるのかと理解できた。
走力が上がっていくと、自然と企業から声がかかり、競技に集中することができた。
「4年の時は、実業団ではマラソンで勝負するんだという気持ちでいました」
九電工で赤﨑が初めてマラソンに臨んだのが、2022年2月、別府大分毎日マラソンだった。入社してから初マラソンまで2年間の時間が経過していた。
「入社してから、マラソンに対して、どうやっていくかという話を総監督としたんです。まだ30キロとかもやったことがなかったので、1年目は毎日30キロを目標にする。そこで結果を出して、2年目からマラソンに取り組もうということになったので、初マラソンは自分的にはプラン通りでした。別大(別府大分毎日マラソン)を最初のレースに選んだのは、大塚さんの最初のレースが別大だったからです。総監督からは、『赤﨑も大塚がやってきた練習をベースにうまく工夫しながらやっていこう』と言われました。練習をやっていく中でこのくらいできればこのくらいのタイムは出るというのが見えてきた。監督にも『2時間10分は確実に切れるだろう』と言われたので、自信を持って初めてのマラソンに臨むことができました」
初マラソンのタイムは、2時間9分17秒。レース前、大塚に「初めてのマラソンは38キロ付近で足がつりかけたので要注意」と言われたが、そういう感覚は一切なかった。それを聞いた綾部監督は、「赤﨑はマラソンの適性があるかもしれない」と思った。
2度目のマラソンは、2022年12月の福岡国際マラソン2022だった。
前年に福岡国際マラソンが幕を下ろし、新たな運営体制でスタートした福岡国際マラソン2022だったが、この大会には特別な思い入れがあった。
「福岡国際は九電工が関わっていたこともあり、一度は走りたいと思っていたところ、新しい大会として開催されることになったので、その1回目に走りたいと思って出場しました。設定タイムは、2時間8分以内、日本人トップを目標にしていました」
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著者プロフィール
佐藤 俊 (さとう・しゅん)
1963年北海道生まれ。青山学院大学経営学部卒業後、出版社を経て1993年にフリーランスに転向。現在は陸上(駅伝)、サッカー、卓球などさまざまなスポーツや、伝統芸能など幅広い分野を取材し、雑誌、WEB、新聞などに寄稿している。「宮本恒靖 学ぶ人」(文藝春秋)、「箱根0区を駆ける者たち」(幻冬舎)、「箱根奪取」(集英社)など著書多数。