優勝候補のはずがまさかの最下位...井上大仁はMGCで前回のリベンジを狙う「ネガティブな気持ちが少しでもあると一気に崩れてしまう」
2024年パリ五輪のマラソン日本代表の座を狙う、箱根駅伝に出場した選手たちへのインタビュー。当時のエピソードやパリ五輪に向けての意気込み、"箱根"での経験が今の走り、人生にどう影響を与えているのかを聞いていく。
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パリ五輪を目指す、元・箱根駅伝の選手たち
~HAKONE to PARIS~
第13回・井上大仁(山梨学院大―三菱重工)後編
前編を読む>>箱根駅伝常連校・山梨学院大で伝説となった井上大仁の走り
2019年のMGCでは最下位に終わった井上大仁(三菱重工)この記事に関連する写真を見る
マラソンを主戦場にして戦う。
高校時代の終わりからそう考えていた井上大仁が、山梨学院大卒業後、選択した実業団は長崎に拠点を置くMHPS(現三菱重工)だった。
「大学時代、合宿とかに参加させていただいた際、タフな練習がすごく多かったんですけど、それが自分には合うなと思ったんです。それに自分がマラソンで勝負し、世界で戦うことを考えるにあたって、陸上部ではなく、マラソン部があるというのも大きな魅力でした」
入社1年目は、マラソンを走る予定は入れていなかった。まずは、環境が変わるなか、練習にしっかりとついていくこと。ニューイヤー駅伝に出て、結果を残すことを目標にして実業団生活をスタートさせた。そのニューイヤー駅伝では、1年目ながらエース区間を走り、4区3位と好走した。その結果を受けて、気持ちが変化した。
「ニューイヤーの結果がけっこうよかったので、マラソンのレースそのものとリオ五輪の選考レースの雰囲気がどんなものかを感じるためにマラソンに出ることを決めたんです」
2016年3月、井上はびわ湖毎日マラソンに出走し、2時間12分56秒で初マラソンを終えた。
「思ったよりもキツかった。甘くないと思いました」
30キロ過ぎに足が止まり、体も思ったよりも動かなくなった。いい経験という言葉を使いたくないが、次にやるべきことが明確に見えたという点においては、走った意味があった。
「そもそも練習量が足りていなかったですね。それを踏まえて僕がやらないといけないことは、練習でしっかりと走り込むこと。そして、一喜一憂せずに淡々とやっていくこと。次のマラソンに向けて練習がタフでキツくても、淡々とこなしていくのをイメージしてやっていました。そのうえで、次のマラソンでは2時間7分台を出して、世界陸上のマラソン代表になるのを目標にしていました」
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プロフィール
佐藤 俊 (さとう・しゅん)
1963年北海道生まれ。青山学院大学経営学部卒業後、出版社を経て1993年にフリーランスに転向。現在は陸上(駅伝)、サッカー、卓球などさまざまなスポーツや、伝統芸能など幅広い分野を取材し、雑誌、WEB、新聞などに寄稿している。「宮本恒靖 学ぶ人」(文藝春秋)、「箱根0区を駆ける者たち」(幻冬舎)、「箱根奪取」(集英社)など著書多数。