箱根駅伝常連校・山梨学院大で伝説となった井上大仁の走り 大迫傑は「雲の上の存在から越えていくべき目標になった」

  • 佐藤俊●文 text by Sato Shun
  • photo by 産経新聞社

2024年パリ五輪のマラソン日本代表の座を狙う、箱根駅伝に出場した選手たちへのインタビュー。当時のエピソードやパリ五輪に向けての意気込み、"箱根"での経験が今の走り、人生にどう影響を与えているのかを聞いていく。

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パリ五輪を目指す、元・箱根駅伝の選手たち
~HAKONE to PARIS~
第13回・井上大仁(山梨学院大―三菱重工)前編

2015年の箱根駅伝。山梨学院大・井上大仁(左)は最下位で襷を受け取った2015年の箱根駅伝。山梨学院大・井上大仁(左)は最下位で襷を受け取ったこの記事に関連する写真を見る
 井上大仁(いのうえ・ひろと)といえば、2018年ジャカルタ・アジア大会でのマラソンでエルハサン・エラバッシ(バーレーン)との激走を制し、金メダルを獲得した姿を思い浮かべる人がいるだろう。箱根駅伝を4年連続で駆け、2017年のロンドン世界陸上のマラソンにも出場するなど日本のマラソン界のトップランナーのひとりだが、井上は自己を把握する力にも長けている。常に必要なもの、足りないものを把握して練習に取り組み、結果を出してきた。その姿勢に今もブレはなく、この秋、五輪出場をかけてMGC(マラソングランドチャンピオンシップ)を戦い、パリを目指す──。

 井上が長崎・鎮西学院高から山梨学院大に進学したのは、将来を見据えてのことだった。

「高校の時から、将来はマラソンを走って有名になりたいと思っていました。当時の山梨学院大は、尾方剛さん、大崎悟史さんなど、マラソンで活躍されている先輩方を輩出していて、なおかつ世界レベルのケニア人留学生がいたので、彼らについて学んでいきながらマラソンの下地を作っていきたいと思ったんです」

 マラソンのベースを作るのが目的だったのだが、箱根駅伝も重要なポイントとして井上は考えていた。

「もちろん、箱根に出たかったというのもあります。当時の山梨学院大はシード常連校で、頑張れば優勝も見えるぐらいだったので、自分がいる間に優勝できたらと考えていました。箱根もマラソンにつながっていくんじゃないかなと思っていたので、それも山梨学院大を選んだ理由のひとつです」

 大きな夢をもって箱根駅伝の常連校に入学した井上だが、練習環境やチームメイトに馴染むまで、多くの時間を要した。

「山梨学院大は、付属高から上がってくる選手、全国の強豪校からくる選手、僕みたいに地方から出てくる選手の3つに分かれるんです。付属上がりや強豪校からくる選手はすでに合宿や試合で一緒になって顔見知りなので自然とコミュニティーができるんですよ。でも、僕みたいな地方から来た選手はみんなと馴染むのが大変でした。先輩も怖くて、なかなか話しかけづらかったので、チームに慣れるまで夏ぐらいまでかかりました」

 練習においても高校時代との違いを痛感した。大学に入るまでは10キロの持ちタイムに自信があったが、いざ入学するとレギュラーを獲れるかどうかのぎりぎりの線にいた。練習メニューも質が上がり、ついて行くのが精一杯だった。そんななか、故障してしまい、それ以降、長く歩いたり、補強トレーニングをしたり、自転車を漕いだりして基礎体力を鍛えていった。

「基礎がしっかりできていたせいか、夏合宿で長い距離を走り込んでいくと、夏を過ぎてから一気に力がついて伸びたのを感じました」

 井上は、すでに全日本大学駅伝の予選会に出場していたが、箱根駅伝の予選会(前年はシード落ちしていた)にも出場することが決まった。レースは「すごく緊張した」というが、1年生で唯一予選会を走り、チーム内4位、総合45位でチームに貢献し、山梨学院大は2位で予選会を突破した。

「そこで箱根も戦えそうだなっていう手応えを感じました」 

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著者プロフィール

  • 佐藤 俊

    佐藤 俊 (さとう・しゅん)

    1963年北海道生まれ。青山学院大学経営学部卒業後、出版社を経て1993年にフリーランスに転向。現在は陸上(駅伝)、サッカー、卓球などさまざまなスポーツや、伝統芸能など幅広い分野を取材し、雑誌、WEB、新聞などに寄稿している。「宮本恒靖 学ぶ人」(文藝春秋)、「箱根0区を駆ける者たち」(幻冬舎)、「箱根奪取」(集英社)など著書多数。

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