箱根駅伝常連校・山梨学院大で伝説となった井上大仁の走り 大迫傑は「雲の上の存在から越えていくべき目標になった」 (2ページ目)

  • 佐藤俊●文 text by Sato Shun
  • photo by 産経新聞社

 実際、井上は早い段階で1区での出場を告げられていた。箱根駅伝の本番、1区には大迫傑(早稲田大2年・現ナイキ)、村山紘太(城西大1年・現GMO)ら錚々たる顔ぶれが並んでいた。

「スタートラインに立った時、周囲は雑誌とかテレビ越しで見ていた人ばかりで、オーラが全然違うし、本当にこの人たちと走るのかって感じでした。どこまで通用するのだろうか。いや、通用するだけじゃダメだし、1区を任された以上は下手な走りはできないので、集中してしっかり走ろうと思っていました」

 スタートしてからも箱根駅伝を走る喜びや沿道の声を聞く余裕はほとんどなかった。これが箱根かぁと感慨にふけることもなく、しっかりと自分の仕事をしないといけないという気持ちだけで走った。井上はトップの大迫を追いかけ、3位争いを展開し、8名の選手とともに中継所になだれこんだ。区間10位という結果を出して、次に襷をつないだ。

「1年目としては、わりと走れたほうかなと思いました。でも、トップの大迫さんを始め、撹上(宏光・駒澤大)さん、服部(翔大・日体大)さん、宇野(博之・東洋大)さんには歯が立たないという気持ちもありました。特に大迫さんは、本当に強かったです」

 1年時は、背中を見ることしかできなかった大迫だが、井上が3年になるとその距離はグンと近づいた。3年時の全日本大学駅伝では2区で大迫らと同タイムで区間賞を獲得するまでに成長した。

「レースで強い選手と競り合うとか、そういうレースを経て自信をつけてこられたのは、駅伝の魅力だと思います。それがあったから大迫さんを雲の上の存在ではなく、越えていくべき目標として意識することができました」

 ここから大迫は、井上にとって憧れではなく、明確なライバルになった。
 
 山梨学院大在学中、井上は4年間、すべての学年で箱根駅伝を走った。

 1年時は1区10位、2年時は3区7位、3年時は5区だったが2区オムワンバが右足疲労骨折で途中棄権になり、オープン参加になった。4年時は3区3位だった。

 井上にとって、どの学年の時の箱根が一番印象に残っているのだろうか。

「学年ごとに立場が違うなか、いろんな区間を走らせてもらったので、それぞれ印象に残っているんですが、3年時の途中棄権はなかなかない経験をしました。もう勝敗に関われないので開き直って走るしかなかったですね。4年の時は、最下位で自分のところにきたんです。襷がつながっている分、前年よりもマシだなぁって思いつつ、ここから追い上げの流れを作ればシード権はなんとかなるかなって思って走りました。僕の3区でダメなら完全に終わったなという感じでしたし、自分のモチベーションとして、ひとりでシードまで差を詰めるぞっていう気持ちで走れたので、この箱根は印象深いですね」

 4年時は、キャプテンとして出走し、最下位から17位まで順位を上げた。この走りが起爆剤となり、その後、チームは総合9位にまで順位を上げて、シード権を獲得した。この時の井上の快走は、山梨学院大では、半ば伝説化されているほどだ。

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