まるでドラマ『陸王』のように、
草創期の箱根駅伝を足袋職人が支えた (3ページ目)
1991年の世界陸上東京大会でマラソン金メダリストとなった谷口浩美もそのひとりだった。92年バルセロナ五輪では、優勝候補でありながら踵(かかと)を踏まれて転倒。8位でゴール後に発した「こけちゃいました」というセリフで人々に愛されたランナーだ。
箱根の山を駆け下りる日体大時代の谷口浩美 photo by aflo
中学時代からハリマヤのシューズを購入して履いていたという谷口は、全国高校駅伝で5度の優勝(当時)を誇る宮崎県立小林高校に進学する。その頃はすでにオニツカ(現アシックス)のマラソンシューズが全盛だったが、顧問の外山監督の勧めもあって競技用のシューズはハリマヤ製に決めた。
谷口が懐かしそうに振り返る。
「ハリマヤのシューズは履いた感じが袋縫いなんです。ミトンの手袋ってあるでしょ。あれみたいに親指があって、あとの4本の指が包み込まれた感覚だった」
高校時代の谷口は、ハリマヤのシューズがまさか足袋から派生した製品とは知るよしもない。
「僕は土踏まずが高くて甲高で、典型的な日本人の足型。ハリマヤが、そんな僕の足にフィットしていたんです」
谷口は1年生のときから高校駅伝のメンバーに抜擢されて、3年連続で全国大会に出場した。しかも2年、3年では全国大会2連覇を果たした。そうした実績が評価されて、日本体育大学へ進学する。
「東京の大学に入ったはいいけど、シューズを買う余裕もない。そしたら外山監督にハリマヤに行きなさいって言われてね。1年の夏休み前に初めて行ったんですが、東京に出てきても練習ばかりで、当時は大塚の場所もわからなかったんです」
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