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まるでドラマ『陸王』のように、
草創期の箱根駅伝を足袋職人が支えた (2ページ目)

  • 石井孝●文・写真 text and photo by Ishii Takashi

 駅伝は山上りや山下りなど、区間によって自分の走りの特性が生かせる。駅伝チームを組むには人数が必要だし、団体競技の面白さも加わることで、ランナーの量と質を高めることができるのではないか。ランナーが無名でも大学対抗戦にすれば、沿道には応援する人々が詰めかけて、陸上競技の普及にもつながるはずだ。

 こうした発想力には、金栗のたぐいまれな先見性が伺える。
 
 金栗は、東京箱根間往復大学駅伝競走、いわゆる「箱根駅伝」の企画を報知新聞社に持ち込んだ。しかも金栗は、この箱根駅伝を「アメリカ大陸横断駅伝」の予選会にしようとしていた。

 サンフランシスコからアリゾナ砂漠、ロッキー山脈を越えて、最後はニューヨークへ。日本人がこれを成し遂げたら世界中から注目されるし、学生にも夢を与えられる。ロッキー山脈を想定して、「天下の険」とうたわれる箱根越えのコースにした。この箱根走破で選ばれたメンバーを引き連れて、アメリカ大陸横断に挑戦するという壮大な計画だった。

 こうして1920年(大正9年)2月14日、有楽町の報知新聞社前を出発地点とする箱根駅伝がスタートした。

 金栗の想いに応えるように、辛作もサポートを惜しまなかった。駅伝を走る選手たちを、荷台に大きなカゴをつけたオートバイで追いかけさせた。カゴの中には金栗足袋が山ほど積まれている。もし途中で足袋が破けたり、底が抜けたりしたら、すぐに新しい足袋を渡せるようにするためだ。

「学生にとって、マラソン足袋は安いものではないだろう」と辛作は思った。中継地点でタスキを待つ中には、つぎはぎだらけの古い足袋を履いている者もいた。そうした選手を見つけては、新しい足袋に替えてやるのだった。

 結果的に「アメリカ大陸横断駅伝」は実現しなかったが、現在の箱根駅伝の人気はご存じの通りだ。また、金栗の思惑通り、箱根駅伝からは多くの世界的なランナーが輩出し、シューズメーカーとなったハリマヤもまた将来性ある多くの選手をサポートした。

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