【ミラノオリンピック】アルバイト生活も経験した二階堂蓮 成長の要因は「思考のレベルアップ」
【紆余曲折を経ての五輪出場】
前回北京五輪のノーマルヒル金とラージヒル銀に続く、小林陵侑(チームROY)の2大会連続メダルが期待されていたミラノ・コルティナ五輪のスキージャンプ。「ピークを合わせる難しさを改めて感じた」と、個人2戦は6位が最高で、メダルは混合団体の銅のみに終わった小林は、この大会で得た手応えを聞かれると、「僕がダメでもチームメイトが頑張ってくれる安心感っていう手応えを感じました。日本チーム強いな、と」と言って笑顔を見せた。
初めての五輪で3つのメダルを獲得した二階堂蓮 photo by Tsutomu Kishimoto/JMPA その小林に代わり、一躍主役に踊り出たのが、24歳の二階堂蓮(日本ビール)だった。
父親の学さんもジャンプ選手で、1988年から1991年の3年間で、フル参戦の1シーズンを含めてW杯には32戦出場していた。さらに1990年には葛西紀明(土屋ホーム)とともに世界フライング選手権に出場し、1991年に今回と同じプレダッツォで開催された世界選手権で、原田雅彦(雪印メグミルク)らとともにノーマルヒルに出場していた。
そんな父親のもとで育った二階堂だが、実は苦労した時期があった。下川商業高校3年の2020年1月にW杯札幌大会に2戦出場を果たしたり、世界ジュニアにも4年連続で代表に選ばれたりしたが、高校卒業の段階では声を掛けてくれる実業団チームがなかった。そのため、東海大学に入学したが、コロナ禍で学業と競技の両立は難しく、ジャンプに専念するために退学。1年間のアルバイト生活を経て、2022年に日本ビールスキー部の所属になった。
競技環境が安定すると、2022年9月のコンチネンタル杯で2戦連続2位になってサマーGPの出場権を獲得して第4戦から出場して初優勝。その成績で高校3年生以来、出場できていなかったW杯にもフル参戦し、総合順位は日本人3番手の41位になった。
当時、向かい風が多い札幌の大倉山での練習が多かった影響から、空中で攻めすぎて突っ込んでしまうことも多く、追い風の条件が多いヨーロッパでは結果を出せずにいた。
二階堂は当時のジャンプについて、こう振り返る。
「最初は空中姿勢に限らず、スタートしてからのアプローチのポジションだったり、飛び出しの動作だったり......。あとは着地のテレマーク姿勢など、ほぼ全部において課題がありました」
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