【平成の名力士列伝:常幸龍】最速の昇進街道を突き進んだ「記録男」 ケガとの戦いに挑み続けた不屈の魂と相撲愛
最後まで、愚直に相撲に向き合い続けた常幸龍 photo by Kyodo News
連載・平成の名力士列伝64:常幸龍
平成とともに訪れた空前の大相撲ブーム。新たな時代を感じさせる個性あふれる力士たちの勇姿は、連綿と時代をつなぎ、今もなお多くの人々の記憶に残っている。
そんな平成を代表する力士を振り返る連載。今回は、最速昇進記録の樹立とケガとの戦いでファンの記憶に残る常幸龍を紹介する。
【入門からの連勝記録を打ち立て所要9場所で新入幕】
少年時代から筋金入りの相撲ファンで、国技館で"出待ち"をしては力士にサインをお願いしたり、一緒の写真に納まったりもした。当時、ファンだった横綱・朝青龍から「うちの部屋に来い」と声を掛けられた時は、このうえなくうれしかったという。
好きが高じて自身も小2から廻しを締めると、小4で全国大会ベスト8に食い込むほどの実力を示していたが、子どもの頃に憧れていたのは力士ではなく呼出しだった。
「中2までは体が小さく、なかなか勝てなかった。その代わり、町内会から借りてきた太鼓を家でよく叩いていました」
相撲は中学卒業と同時に辞めるつもりでいたが、中3になって体が大きくなると勝てるようになり、全中大会でも個人3位に入賞するなど頭角を現わすと、名門・埼玉栄高からスカウトを受けた。進路に迷った時期もあったが、同校に進学した。
強豪校の稽古とトレーニングで実力はさらに磨かれ、数々の全国タイトルを奪取。高3の時は主将を任され、高校総体ではチームを2年連続全国制覇に導いた。
日大に進学すると1年生から主力として活躍。2年生の時には学生横綱にも輝いた。喜びもつかの間、その3カ月後に父・幸一さんが52歳の若さで急逝。一時は大学を中退して付け出しでの角界入りも考えたが、生前の父親がよく語っていた「自分が決めた道は最後まであきらめるな」という言葉に従い、大学生活を全う。高校時代から木瀬親方(元幕内・肥後ノ海)に声を掛けてもらっていた縁で大学卒業と同時に、当時、木瀬部屋の力士を預かっていた北の湖部屋の門を叩いた。
大学時代は6つのタイトルを獲得するも、4年次はビッグタイトルとは無縁だったため、付け出し資格を得られず、佐久間山の四股名で前相撲からスタート。相撲エリートとしては"回り道"となったが、この逆境のおかげで相撲史にその名を刻み込むことになる。
序ノ口、序二段、三段目の各場所を7戦全勝で1場所通過。序二段の優勝決定戦では惜しくも敗れたが、序ノ口、三段目は各段優勝を果たし、本場所デビューから4場所目の平成24(2012)年1月場所の番付は幕下15枚目。この場所も全勝すれば、年6場所制では史上最速、かつ史上初の無敗での関取昇進という大快挙とあって、大きな注目を浴びた。
衆目が集まる土俵でも快調に白星を重ね、出だしから6連勝。あと1勝で大偉業達成だったが、最後の相撲は千昇の上手投げに屈し「緊張しないようにと思ったけど、体は正直ですね」と苦笑い。入門からの連勝記録は27でストップしたものの、現在も歴代1位の燦然と輝く記録を打ち立てた。自身が敗れたため、幕下は6勝1敗で8人が並んだが、トーナメント形式の優勝決定戦を制し、三段目に続く連覇を果たした。
翌3月場所は幕下4枚目で5勝2敗とし、史上1位タイの前相撲から所要6場所で新十両に昇進。関取になったのを機に四股名を佐久間山から常幸龍に改名。「幸」は亡き父の名から取った。
場所後、木瀬部屋が復興すると同部屋に移籍となり、十両は3場所で通過。「歴史を作りたいという思いがあった」という言葉どおり、琴欧洲や阿覧の11場所を抜く史上単独1位(当時)の所要9場所で新入幕となった。
1 / 2
著者プロフィール
荒井太郎 (あらい・たろう)
1967年東京都生まれ。早稲田大学卒業。相撲ジャーナリストとして専門誌に取材執筆、連載も持つ。テレビ、ラジオ出演、コメント提供多数。『大相撲事件史』『大相撲あるある』『知れば知るほど大相撲』(舞の海氏との共著)、近著に横綱稀勢の里を描いた『愚直』など著書多数。相撲に関する書籍や番組の企画、監修なども手掛ける。早稲田大学エクステンションセンター講師、ヤフー大相撲公式コメンテーター。

