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【平成の名力士列伝:高見盛】愚直で独特だからこそユニーク 人間味あふれる "ロボコップ" (2ページ目)

  • 荒井太郎●取材・文 text by Arai Taro

【事欠かない人間味あふれるエピソード】

 平成14(2002)年3月場所、1年半ぶりに幕内に復帰したが、おなじみの"気合い注入パフォーマンス"は、この場所から始まった。制限時間いっぱいになるとこぶしを握り、自らの顔面を右、左と殴ると両こぶしを2度、3度と下に思い切り振り下ろす。塩を掴んで土俵中央に振り返ると、何やら叫んでいるときもある。傍目から見れば"奇行"としか見えないが、「またケガをするんじゃないかと緊張して足が震えるので」と本人は大まじめで不安払拭に努めていた。

 高見盛に翌日の対戦相手を知らせるのは"御法度"だった。知ってしまうと夜も眠れなくなるくらいの不安に駆られるからだ。事情を知らない記者が「明日の相手は......」と言いかけると突然、両耳を塞いで喚き散らしたこともあった。

 勝てば天井に反りかえるくらい堂々と胸を張って花道を引き揚げるが、負けるとこの世の終わりかというくらい情けない表情でうなだれて帰っていく。"カトちゃん"の一挙手一投足に、相撲ファンは勝っても負けても大喜びした。

 そんな一本気な高見盛の相撲ぶりも、ただ右を差して寄るだけだ。自分の型を強化させるために、稽古場では鉄砲柱に向かって何度も右肩から突進していったが、こんな使い方をするのは"カトちゃん"しかいない。本来、鉄砲柱とは摺り足をしながら左右交互に突いて、突き押しの型を磨くためのものだ。鉄砲柱は地中約1メートルまで埋め込み、根本をコンクリートで固めていたにもかかわらず、高見盛が毎日ぶつかるためにすぐに傾いてしまうほどだった。

 稽古の仕上げで行なうぶつかり稽古は、胸を出してもらう相手の両脇に手を下から当てがい、ハズ押しの形で行なうものだが「あいつは右を差しにいった」と兄弟子の潮丸(東関親方、故人)が証言していた。胸を出す部屋頭の横綱・曙に何度も怒られていたが、どうしても直すことができなかった。最後は横綱が折れて「かいなを返して起こして出ろ」と言われていた。

 こうして地道に磨いてきた右差しからの寄りという"一点突破"で、再入幕から4場所目の同年秋場所、新小結に昇進。最大のハイライトは平成15(2003)年7月場所だろう。武蔵丸、朝青龍の2横綱、武双山、千代大海の2大関を破り、9勝で初の殊勲賞を獲得した。

 その後も長く土俵を務めたが、晩年は右肩のケガが悪化して十両暮らしが長くなり、幕下への陥落が決定的となった平成25(2013)年1月場所を最後に、36歳で土俵を去った。

【Profile】高見盛 精彦(たかみさかり・せいけん)/昭和51(1976)年5月12日生まれ、青森県北津軽郡板柳町出身/本名:加藤精彦/しこ名履歴:加藤→高見盛/所属:東関部屋/初土俵:平成11(1999)年3月場所/引退場所:平成25(2013)年1月場所/最高位:小結

著者プロフィール

  • 荒井太郎

    荒井太郎 (あらい・たろう)

    1967年東京都生まれ。早稲田大学卒業。相撲ジャーナリストとして専門誌に取材執筆、連載も持つ。テレビ、ラジオ出演、コメント提供多数。『大相撲事件史』『大相撲あるある』『知れば知るほど大相撲』(舞の海氏との共著)、近著に横綱稀勢の里を描いた『愚直』など著書多数。相撲に関する書籍や番組の企画、監修なども手掛ける。早稲田大学エクステンションセンター講師、ヤフー大相撲公式コメンテーター。

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