藤澤五月が味わった最大の挫折「何を投げても決まる気がしなかった、あの感覚は本当に怖かった」 (2ページ目)

  • 竹田聡一郎●取材・構成 text&photo by Takeda Soichiro

 とにかく、私のショットが決まりませんでした。オープン(ガードストーンなどがない、あるいは少ない、見通しのよい状態)なハウスなのに、ドローもテイクも決まらず、「どうやって投げればいいんだっけ」と考え始めてしまい、解決策も見つからずに混乱が深まって、何もできずに大会が終わってしまいました。

 何を投げても決まる気がしなかった、あの感覚は本当に怖かったです。

 異国での慣れない食事や、難しいアイスアリーナでの試合ということへの戸惑いもありました。そして、「日本代表として、勝たないといけない」という目標もプレッシャーになっていたのかもしれません。理由はたくさんあったと思います。

 でも今考えれば、それらはすべて言い訳です。いい準備ができず、単純に経験も実力もなかった。ただそれだけです。

日本代表として初めて挑んだPACCは最下位に終わった日本代表として初めて挑んだPACCは最下位に終わったこの記事に関連する写真を見る 優勝したのは中国代表だったのですが、スキップの王(冰玉/ワン・ビンユウ)選手は、その時すでに世界選手権で金メダル(2009年)、バンクーバー五輪で銅メダル(2010年)を獲得していた世界のトップ選手でした。

 私が苦しんでいたアイスで難しいソフトウエイトのショットを次々と決めていき、アイスの外ではWCF(世界カーリング連盟)のスタッフと流暢な英語でコミュニケーションを取ったりしていました。その姿を見て、「すごいな、こういう選手が世界で結果を出すんだな」と、憧れと悔しさを同時に感じました。

 日本代表として初めて臨んだ大会は、しばらく落ち込むくらいの惨敗でした。日本選手権で戦ったライバルチームにも、南京まで駆けつけてくれた中部電力の社員の方々にも、本当に申し訳なくて......。「帰国したくないな」とすら考えていました。

 のちに五輪に出場することになった時など、よく「選手として挫折した経験は?」とメディアの方々に質問されますが、その時はあの南京の大きなアリーナと、決まらない自分のショットを思い出します。

 そして私は、あの時の悔しさから練習量をさらに増やしていくことになります。練習することで、不安を自信に変えようとしていたように思います。

藤澤五月(ふじさわ・さつき)
1991年5月24日生まれ。北海道北見市出身。高校卒業後、中部電力入り。日本選手権4連覇(2011年~2014年)を果たすも、ソチ五輪出場は叶わなかった。2015年、ロコ・ソラーレに加入。2016年世界選手権で準優勝。2018年平昌五輪で銅メダル、2022年北京五輪で銀メダルを獲得した。趣味はゴルフ。

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