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井村雅代が中国で成したもう一つの偉業。
政治の枠を超え、抱擁を生んだ (3ページ目)

  • 木村元彦●文 text by Kimura Yukihiko

 デュエットでも同様の事態があった。井村は四川省からやってきた双子の選手に注目した。それが蒋亭亭(亭には女ヘンがつく/ジャン・ティンティン)と蒋文文(ジャン・ウェンウェン)だった。ともに身体が柔らかく、手足が長い。

「ぴんと来ました。この子らをしっかりと伸ばしていけばロシアにだって勝てる」

 しかし、シンクロのための筋肉がまだ出来上がっていなかった。鍛え始めると、当初はケガや病気を理由に練習を休むことが多かった。しかし、井村は妥協を許さなかった。2カ月が経過した頃、「どちらかが休んでいるのなら、もう練習しないでよろしい。ふたりが揃わない限り、私はもう教えない」

 そう突き放すと、生活習慣を改め、自分たちで健康管理をやり出した。その厳しさはふたりにとって初めての経験であったが、フィジカルを徹底的に鍛えあげられ、技術も基礎から叩き込まれて大きな成長曲線を描いた。

 世界で戦えるのはこのティンティンとウェンウェンしかいないと確信した井村は、蒋姉妹を中国のデュエット代表に選ぶと宣言した。しかし、これも前例のないことであった。五輪は北京開催であり、それまでのデュエットの代表の座を不動にしていたのも北京の選手。それを外して四川省出身者を抜擢するというのは前代未聞であった。

 威信をかけた首都での大会である。この人選にもミルティノビッチが言っていたような政治的な大きな圧力があったことは、想像するに難くない。しかし、最後は中国の水泳連盟の会長がこの判断をあらゆるものから守ってくれた。就任以来、井村の指導ぶりをつぶさに見ていた会長は、必ず結果につながるだろうという信頼を置いてくれていた。

「会長たちは大変やったんやろうと思います。北京の偉い人にしてみたら、『ずっとうちの選手が一番やったのに、わけのわからん日本人が来て何するねん』みたいな思いがあったんやないでしょうか。でも、あのふたりやないと戦えないと確信があったし、今後の中国のシンクロを引っ張るのもあの子らやと思ったから迷いはなかったです」

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