2019.10.29

井村雅代が中国で成したもう一つの偉業。
政治の枠を超え、抱擁を生んだ

  • 木村元彦●文 text by Kimura Yukihiko

連載「礎の人 ~栄光の前にこの人物あり~」第6回:井村雅代(後編)

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 国をあげてシンクロ(現アーティスティックスイミング)の強化を図る中国では、プールにおける施設機材、合宿地の選択など、環境面においては最良のバックアップがなされた。

現在は来年の東京五輪に向け、日本で指揮を執っている井村雅代 photo by YUTAKA/アフロスポーツ

 しかし、約14億人という世界最大の人口を擁し、漢民族と55を数える少数民族で構成されるこの大国の指導においては、常に大きな問題が存在した。

 サッカーの世界において1980年代から、メキシコ、コスタリカ、アメリカ、ナイジェリア、中国と文化的背景のまったく異なる5つの国の代表を率いて5大会連続でW杯出場を果たしたセルビア人の名将ボラ・ミルティノビッチは中国での体験について筆者にこう語ったことがある。

「あの国で団体種目の代表監督をするということは、極めて難しい。私はユーゴスラビア出身ということで、その問題に耐性があったから良かったが、初めて指導するコーチはまず驚いて戸惑うはずだ」

 政治とスポーツとの距離が近いのである。代表選手の選考は言うまでもなく、監督の専権事項であるが、地域主義の強さから、各地の協会からこの選手を使って欲しいというプレッシャーがすさまじかったという。

 多民族国家であったかつてのユーゴスラビアも同様であった。拙著『オシムの言葉』に記したが、ユーゴの最後の代表監督だったイビツァ・オシムもこの介入と闘っていた。

 国際試合の前に選手を招集しようとすると、クロアチア、セルビア、スロベニア、ボスニア…、各共和国の政治家が必ず「わが民族の選手を使え」と圧力をかけてきた。しかし、オシムは怯まなかった。

 評価基準はあくまでもサッカー、それゆえに「その選手がすばらしければ、私はコソボのアルバニア人で11人揃えてみせる」と、ユーゴで最も被差別の地位にあったアルバニア人の名を出してまで、一切の忖度をしないことを宣言した。激しい紛争の後で、オシムが現在でも全民族から、信用され、慕われるのはこの姿勢にある。