2019.10.28

「美しい日本のシンクロを守る」
井村雅代は批判覚悟で中国に向かった

  • 木村元彦●文 text by Kimura Yukihiko

連載「礎の人 ~栄光の前にこの人物あり~」第5回:井村雅代(前編)

 派手なファインプレーは誰が見てもわかる。優勝の瞬間のヒーローもまた万人は知る。しかし、その場の勝利は遥か彼方にありながら、創成期や過渡期のチームを支え、次世代にバトンを渡すために苦闘した人物に気づく者は少ない。礎を自覚した人は先を見すえた仕事のしかたゆえに、その結果や実績から言えば凡庸、否、惨々たるものであることが多い。

 しかし、スポーツの世界において突然変異は極めて稀である。チームが栄光を極める前に土台を固めた人々の存在がある。「実はあの人がいたから、栄光がある」という小さな声に耳を傾け、スポットを浴びることなく忘れかけられている人々の隠れたファインプレーを今、掘り起こしてみる。

 連載の第5回は、日本のアーティスティックスイミング(旧名:シンクロナイズドスイミング)を語るうえで欠かせない人物、井村雅代。

厳しくも愛ある指導で日本のアーティスティックスイミングの礎を築いた井村雅代 photo by Kimura Yukihiko

 来年の東京五輪に向けて日本代表を率いる井村雅代は、「日本シンクロの母」と呼ばれている。オリンピックの正式種目となった1984年のロサンゼルス大会では元好三和子、木村さえ子組がデュエットで銅メダルを獲得して以降、自ら指導したソウル、バルセロナ、アトランタ、シドニー、アテネ、リオとすべての五輪大会で日本はメダルを獲得している。

 そしてまた、井村雅代を中国のメディアは「教母」という言葉で伝える。英語にすれば「ゴッドマザー」だろうか。かつては世界ランキング6位~7位でくすぶっていた国を今や王者ロシアと並ぶ2強に育て上げた。「飲水思源」(井戸を掘ってくれた人の恩を忘れぬ)の国にとって井村は大恩人という扱いである。まさに、結果も同時に出し続けたアジアのアーティスティックスイミングの「礎の人」である。

 しかし、その指導者半生は逆風の連続であった。礎を築き、結果を出しながらも不遇を余儀なくされ、前に進む決意が少しでも怯めば、そこで終焉にされるという瞬間がいくつもあった。それでも「失敗したらどうしようという思いがよぎったら、こうやって頭を振ってそれを追い出すねん。成功するためのことしか、私は考えへん」。

 その思考と実践の軌跡を辿る。

 1973年春、天理大学を卒業した井村は、保健体育の教員として大阪市内の中学校に赴任する。教育委員会が定める同和教育推進校と教育困難校にそれぞれ4年ずつ、計8年間を務め上げた。当時は、ともに荒れていたことで知られた中学で、初任校はサッカー元日本代表監督の岡田武史の母校でもある。岡田は井村との対談の中で、母校が荒れていた時代の頃を「朝、教室に行ったら、鉈(なた)を黒板に叩きつけている同級生がいた。何やコレと思いました」と回顧している。

 一方、井村は「新任やったから、他校を知らず、学校はこんなもんや」と思いながら、教室に落ちているタバコの吸い殻やシンナーのビニール、ガムのくずを「全部、拾え!」と怒鳴るところから、授業を始めた。保健体育を受け持ち、水泳部のコーチを務め、生活指導を担当した。多忙を極めたこの教員生活が井村の指導の原点でもある。