皆川賢太郎「今はただ、単純に五輪という舞台に立ちたい」 (2ページ目)
「最初の長野五輪(1998年)やソルトレーク五輪(2002年)の頃は、メダルを獲ったり結果を出したら辞めようと思っていました。でも選手として成熟してきて、続ける意味合いが変わってきました。自分自身の記録を超えたいというのは(競技者として)精神的な面で大切だけど、年齢が上になった分の面白さがある。その代わりにジレンマとして、闘争心不足や若い選手の動きが自分にはイメージできないというのもありますけどね(笑)」
リハビリを経て、07年11月にW杯復帰を果たすと、バンクーバー五輪に向けて挑戦を続けた。
2010年、最後の五輪になるだろうと臨んだバンクーバーだったが、思い描く結果を残すことはできなかった。
天候の悪化でスタート位置が下に下がると、旗門の間隔が狭まり、ギュッと凝縮されたようなコースに。その滑りづらいコースの影響から、半数近い選手が途中でコースアウトしていった。皆川も1回目の滑走で、スタートから数秒でコースアウトし、彼の五輪は一瞬にして終わったのだ。
「みんなに『4年やっててあの秒数は無いだろう』と言われましたね(笑)。2本とも完走した方がいいという考え方もあるかもしれないけど、あの時はトリノの自分を超えることしか頭になかったので......。難しいヘアピンだったけど、そこをアグレッシブに攻めなければ平凡なタイムで終わってしまうのもわかっていたし。攻めないで『2本目頑張ります』みたいになるのは嫌だな、というのが単純にあったんです」
コースアウトした直後、皆川は呆然とコース脇に立ち尽くしてゴール方向を見ていた。この五輪で引退を考えていたこともあり、頭の中では「自分のスキーキャリアはこれで終わりなんだな」という思いが巡っていた。
「その頃は、世界チャンピオンになれないならいつ辞めても同じかなということを思っていたので。だんだんその世界との距離が離れていくのを感じていたし、レースではギャンブルしなきゃいけない自分もいるし。だから正直、数秒間だったけど精一杯やったなと思えたから、自分に対する怒りはなかったですね」
一方で続ける意味も感じていた。
かつては前十字靱帯を切れば代表から外されるというのが常識だったが、今は本人に続ける意志があれば、"辞めない"という選択肢を取れるようになってきた。そんな状況があるならば、プロ選手でいられ、スキーを表現するひとりとしていられる間は、やり続けてもいいのかなという思いが生まれた。
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