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小説『アイスリンクの導き』第7話 「再デビュー戦」 (5ページ目)

 宇良は岡山県出身の17歳で、父が転勤族で各地を転々とし、リンクが近くにない町もあったが、どうにかリンクに通い、高校は長野でスケートを続けてきたという。来年はスポーツ推薦で関西の大学に入ることが決まっていた。

 ただ、極端な上がり症だった。今回が初のシニア戦だったのもある。それ以上に、同じ岡山出身で憧れの翔平の復帰戦と重なり、自分を見失っていた。

「あまり気にしないで頑張って。ケガはないでしょ? 一緒に滑るのを楽しみにしているから」

「はい」

 返事はかぼそかった。

「約束だよ」

 翔平が笑いかけると、宇良はリンクの外で深々と頭を下げた。

「脳震盪の可能性があるから、まずはリンクから出て、安静にしていよう」

四郎コーチが言った。

「はい」

 翔平はそう言って、体をゆっくり起こす。肘に痛みはあったが、打ち身だけですみそうだ。

「頭痛、めまい、ふらつきはないか?」

 四郎コーチが立ち上がった翔平に訊ねた。

「大丈夫だと思います」

 翔平はそう言って、体を抱えられながらリンクを出た。

「少しでも頭を打ったんだから、今日の試合はやめておこう」

 四郎コーチが言った。

「そうですね」

 翔平は静かに答えた。こんなスタートもある、と俯瞰して捉えられた。これ以上の逆境はあった。

「病院で医者に診察してもらおう。脳のことは慎重を期した方がいいからね」

「手配とか、よろしくお願いします」

「すでにタクシーを呼んであるよ。病院にも連絡済みだ。こういう時は、選手の意思ではなく、周りが決めるべきだから」

「ありがとうございます」

 外に出て、待っていたタクシーに乗り込んだ。救急車を呼ばれなかったのはありがたかった。サイレンが鳴り響いたら、せっかくの大会が台無しだ。

「翔平君! 大丈夫?」

 どこからか駆け寄ってきた陸が、泣きそうな顔になって言った。

「大丈夫だよ。少し頭を打ったから、念のため」

「走路妨害だった......」

「宇良君は自分で承知しているよ。緊張していたんだ、仕方ないだろ」

「翔平君、相変わらずいい人すぎる」

「責めたってしょうがない。それに勝負にはいろんなことが起こる」

「大人だなぁ」

 陸は納得できない顔で言った。

「お前は頑張れよ。優勝したら、お肉たっぷりもらえるんだから」

「一緒に焼き肉しようね! 絶対、優勝するから」

 陸は目を潤ませながら言った。

 走り出した車の窓から、翔平は会場に目をやった。宇良が会場の外に出て、頭を下げている姿が見えた。手でも振り返してあげたかったが、車は直進してすでに見えなくなっていた。

「競技者は、不運も含めて向き合うしかない」

 昔、波多野が翔平に言っていた。理不尽も乗り越えてこそ、歴史に残るような演技ができる。だとすれば、今日のことにも何らかの意味があるはずだ。

 それにしても、呆気ない。

再デビュー戦の結果は、不戦敗だった。

著者プロフィール

  • 小宮良之

    小宮良之 (こみやよしゆき)

    スポーツライター。1972年生まれ、横浜出身。大学卒業後にバルセロナに渡り、スポーツライターに。語学力を駆使して五輪、W杯を現地取材後、06年に帰国。著書は20冊以上で『導かれし者』(角川文庫)、『アンチ・ドロップアウト』(集英社)など。『ラストシュート 絆を忘れない』(角川文庫)で小説家デビューし、2020年12月には『氷上のフェニックス』(角川文庫)を刊行。パリ五輪ではバレーボールを中心に取材。

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