中村憲剛が岡田ジャパンになって「代表には行かない」と本気で激怒 突然のメンバー外に「さすがに糸が切れてしまいました」
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私が語る「日本サッカー、あの事件の真相」第25回
非エリートが見てきた日本代表とW杯の実像~中村憲剛(1)
「我那覇(和樹)の代表入りが大きかったですね」
中村憲剛が日本代表入りを現実的に捉え始めたのは2006年8月、ドイツW杯後に代表の新たな指揮官となったイビチャ・オシムの初陣となったトリニダード・トバゴ戦だった。チームメイトの我那覇が代表に初招集され、スタメン出場を果たした試合だ。
「ジーコジャパン発足当時は大学生でしたし、J1に上がった時にはすでにチームの骨格、主力が決まっていたのでほぼノーチャンスでした。でも、オシムさんが監督になり、(所属の川崎フロンターレで)一緒にプレーしてきた同い年の我那覇が代表に入ったことで、一気に代表への距離感が狭まりました。
しかも、あの代表は自分の前後の世代の選手が多く入っていた。また、フロンターレがこの時、首位争いをしていたし、(ジェフユナイテッド千葉の指揮を執っていた)オシムさんとはJリーグで対戦していたので、自分のことを知らないわけがない。
急に代表が身近に感じられて、『これはワンチャン、いけるんじゃないか』って。まだ呼ばれてもいないのに、勝手にソワソワしていました(笑)」
それまでの中村にとって、日本代表は憧れであり、応援するチームだった。中学生の時、"ドーハの悲劇"を見て、ベンチ前で倒れ込んだ中山雅史と同じぐらいのショックを受けた。2002年日韓W杯の時は大学4年生で、すでにフロンターレの練習にも参加していたが、日本代表はまだ遠い"世界"だった。
初めてプロサッカー目線で代表を見たのは、2006年ドイツW杯だった。
「Jリーグで自分と対峙していた選手が日本代表としてW杯に出ていたので、自分のなかでかなりのリアリティを持って代表を見ていました。ドイツW杯でなぜ日本が敗れたのか、自分なりの視点を持って分析していました。ただ、(自分の)日本代表入りについては、まだ現実的に考えることはできなかったです」
中村が初めて日本代表に招集されたのは、2006年10月のガーナ戦だった。
「チームの調子もよかったし、我那覇も呼ばれていたので、『自分もあるかも...』と思って期待に胸を膨らませていました。メディアのみなさんも自分の『(代表入りの時が)そろそろくるんじゃない』と盛り上げてくれていたんですけど、なかなか呼ばれなくて、どんどん期待が萎んでいったんです(苦笑)。
そうしたら、10月になって呼ばれて。何もかもが初めてだったんで、合宿所に何を持っていけばいいのか、慌てて我那覇に電話して聞きましたよ(笑)」
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