中村憲剛が岡田ジャパンになって「代表には行かない」と本気で激怒 突然のメンバー外に「さすがに糸が切れてしまいました」 (2ページ目)
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オシムの日本代表に招集されて、当時多くの選手が戸惑ったのが、独特の練習だった。複数のビブスを使用するなど例のない練習スタイルに、ジェフ以外の選手は必死に喰らいついていく状況だった。しかし、中村はそうした練習が楽しかったという。
「僕は小さい頃から背も伸びず、なかなかうまくいかないことが多かった中で、ずっと考えながらサッカーをしてきました。だから、(オシムの練習も)コツさえつかめば、その日のうちにスッと練習に馴染めたし、『面白いな』って思えたんです。どうしてもわからないことは、(ジェフの選手の)羽生(直剛)さんや阿部(勇樹)ちゃんに聞きにいきました。
ただ、初めてチームに合流した時は、めちゃくちゃ緊張しましたよ。僕はそれまで選抜の経験も、アンダーカテゴリーの代表経験もない選手で、日の丸を背負ったことがなかったので、ずっと劣等感を抱いていましたから」
2006年10月のガーナ戦で代表デビューを果たした中村憲剛。photo by AFLO SPORTこの記事に関連する写真を見る ガーナ戦の後半30分、中村は遠藤保仁と交代出場で代表デビューを果たした。その後、鈴木啓太とともにボランチとして代表の中心に座するようになっていく。しかし、「コアメンバーにいても、ダメならすぐに変えられる」という危機感を常に抱いていた。
「ジェフで(佐藤)勇人と阿部ちゃんがキーだったように、オシムさんのサッカーの軸はボランチだと思っていました。自分の振る舞いひとつで、前にいるヤットさん(遠藤)やシュンさん(中村俊輔)の動きが変わってくる。だから、代表のなかで自分が一番、オシムさんのサッカーを理解しないといけない。
それができないと、(メンバーから)外されると思っていました。その危機感があることで、『自分が主力としてやろう』という意識が芽生え、同時に『この座を失いたくない』と思うようになったんです」
オシムは2006年、自らのサッカーに適合するか否かを見極めるために多くの選手を代表に呼んだ。そのなかで、段階的にメンバーを入れ替えてチーム作りを進めていった。
そして、アジアカップが開催される2007年になると、代表引退を宣言していた中澤佑二を復帰させ、海外組の中村俊輔、高原直泰、稲本潤一らチームの主力となり得る選手たちを次々に招集し、さらなるチーム力アップを図った。
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