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【プロレス】「何かやれよ」のむちゃぶりから誕生したドラゴン・スープレックス 藤波辰爾が棚橋弘至に伝えたい土壇場の人生学 (6ページ目)

  • 取材・文/井上崇宏 取材・構成/市川光治(光スタジオ)

── 「これをやれ」と言われなかったのがよかったのかもしれないですね。

棚橋 具体的な指示がないわけですからね。

藤波 「これをやれ」っていうのは、新間さんもオレらが普段どんな練習をして、何を習っているのかはまったく知らないから言えないんだよね(笑)。

棚橋 「何かやれよ」。今日はキラーワードを手に入れました。

── 棚橋さんには「おまえ、今日は何かやれよ」と言ってくるような存在の人はいなかったんですか?

棚橋 いないですね。僕は全部自分で考えて、自分で行動してという感じだったので。

藤波 「何かやれ」って言われたら、それはみんなそれぞれ自分で考えるよね。「何をやろうかな」って。

棚橋 いやぁ〜、とても面白い話ですねぇ。

つづく>>


棚橋弘至(たなはし・ひろし)/1976年11月13日生まれ。岐阜県出身。大学時代からレスリングを始め、98年2月に新日本プロレスの入門テストに合格。99年に立命館大学を卒業し、新日本へ入門。同年10月10日、後楽園ホールにおける真壁伸也(現・刀義)戦でデビュー。2006年7月17日、IWGPヘビー級王座決定トーナメントを制して第45代王座に輝く。09年、プロレス大賞を受賞。11年1月4日、小島聡を破り、第56代IWGPヘビー級王者となり、そこから新記録となる11度の防衛に成功した。23年12月23日に新日本プロレスの代表取締役社長に就任。26年1月4日の東京ドーム大会で引退する

藤波辰爾(ふじなみ・たつみ)/1953年12月28日生まれ。大分県出身。70年6月、16歳で日本プロレスに入門し、翌71年5月9日デビュー。72年3月、新日本プロレス旗揚げ戦の第1試合に出場。同年12月に開催された第1回カール・ゴッチ杯で優勝し、75年6月に海外遠征へ出発。カール・ゴッチのもとで修行を積み、 78年1月にWWWFジュニアヘビー級王座を獲得した。81年末にヘビー級転向を宣言。長州力との戦いは「名勝負数え唄」と呼ばれファンを魅了。99年6月からは5年間に渡り新日本プロレスの代表取締役社長を務めた。06年6月に新日本を退団し、同年8月に『無我ワールド・プロレスリング』を旗揚げ。 08年より団体名を『ドラディション』へと変更した

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