【プロレス】「何かやれよ」のむちゃぶりから誕生したドラゴン・スープレックス 藤波辰爾が棚橋弘至に伝えたい土壇場の人生学 (4ページ目)
藤波 ニューヨークのマディソン・スクエア・ガーデンに初めて上がった時もそうだった。あの時のマディソンはいまだに思い出しても本当に身震いがする。今ではあそこ以上の大観衆が入る会場があるけど、やっぱ当時の大会場と言えばマディソンだからね。海外のいろんなところでやったけど、あのマディソンのリングに向かう時は熱気と重圧で、花道から押し戻されるんじゃないかと思った。
棚橋 でも、あそこでドラゴン・スープレックスを初公開して大爆発ですもんね。動きも最高によかったです。
藤波 あれも新間さんのリングに上がる前のひと言ですよ。「何かやれよ」と。それまでブリッジはずっとゴッチさんから四六時中やらされていたけど、ゴッチさん自身もフルネルソンのスープレックスはやったことがない。ただ、スープレックスには5、6種類あるとは教えてもらって知ってはいた。あの時はただ無我夢中でやっただけだよ。
── じゃあ、練習でもやったことがなかったんですか?
藤波 そう! あのリング上でやったのが初めて。
棚橋 初トライ!
藤波 ゴッチさんのところにはダミーの人形があって、寸胴で中に砂が入った80キロぐらいある重いやつで、それを持って練習していた。でも人間にやったのはあれが初めて。
【誰も口を聞いてくれない】
── 危険も伴いますよね。
藤波 相手(カルロス・ホセ・エストラーダ)がたまたまケガをしなかっただけで危ないよ。次の日に写真を見たら、彼は頭からリングに突き刺さっていたもんね。これは絶対にケガしそうだなと思って。
棚橋 藤波さんが初めて出されたということは、ホセ・エストラーダが初めてくらった人。
藤波 そうだね。首はかなり痛かったらしいんだけど、よく彼はあれをくらって起き上がってきてくれた。もし起き上がれずにケガしてそのまま担架なんかで運ばれていたら、オレはたぶんニューヨークにいられなかったね。だってリングを降りたら、ブルーノ・サンマルチノとかゴリラ・モンスーン、ペドロ・モラレスとか当時のスターたちがみんな控室にいて、祝福どころか、誰もオレのところに来てくれなくて遠巻きに見ていて。
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