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【プロレス】「何かやれよ」のむちゃぶりから誕生したドラゴン・スープレックス 藤波辰爾が棚橋弘至に伝えたい土壇場の人生学 (3ページ目)

  • 取材・文/井上崇宏 取材・構成/市川光治(光スタジオ)

藤波辰爾(右)に憧れていたと語った棚橋弘至 撮影/タイコウクニヨシ藤波辰爾(右)に憧れていたと語った棚橋弘至 撮影/タイコウクニヨシこの記事に関連する写真を見る藤波 逆に、デカいアメリカのレスラーたちのほうが恐怖だったと思う。「おまえ、どこから来たんだ?」「日本から」「どこで練習した?」「フロリダのタンパでカール・ゴッチと」って答えると、もうそれがお墨つきだった。みんながオレのことを"狂気"のように見ていたよ。

棚橋 アメリカのプロレス界のなかでも、ゴッチさんの存在は異色だったんでしょうね。

藤波 身体は絞ってるし、動きはいいし、コンディションもいい。それはカール・ゴッチによってつくられたものだということを知って、「絶対にコイツは何かやってくるぞ」って警戒されたからね。

棚橋 何かを隠し持ってるぞ、みたいな。

── そういう藤波さんの練習に対する従順な姿勢は、ゴッチさんもかわいくてしょうがなかったでしょうね。

藤波 やっぱりゴッチさんは教えるのが好きだったね。特にオレら日本人というのは几帳面で、チョップにしてもものすごく姿勢がいいでしょ。アメリカの選手みたいに適当じゃないから日本の選手のことはすごく好きだったね。

【ドラゴン・スープレックス初披露】

── そうして凄みや迫力を手に入れつつ、日本に帰国すると棚橋さんと同じくアイドル的な人気を博して。藤波さんは元祖アイドルレスラーでしたよね。

藤波 当時はアイドルレスラーなんて言葉はなかったし、オレ自身にもそういう意識はなかったけど、だんだんと周りにそういうファンがついてきているなっていうのは感じてた。若手で下積みも長かったし、格闘技の経験もなくて自分のことで精いっぱいだったから「何かやらなきゃいけない!」っていう意識が常にあった感じだよね。だから帰国する直前にニューヨークでベルト(WWWF世界ジュニアヘビー級王座)を獲った時、当時の新日本には新間寿さんという人もいて、あの人は猪木さんの下にもうひとりスターをつくらなきゃいけないという意識があったんでしょう。だから試合前にいつも言われたよ。「いいか。必ず何かやれよ」って。ほんと無責任だよね(笑)。 

棚橋 「何かやれよ」(笑)。

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