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幻に終わったアントニオ猪木との「シルクロード決戦」プランも 西村修のプロレスラー人生を元東スポ記者が振り返る (4ページ目)

  • 大楽聡詞●取材・文 text by Dairaku Satoshi

【多くの人を愛し、愛された男】

――西村さんの同期のプロレスラーは?

柴田:少しだけ時期はズレますが、小島聡や天山などと同世代ですね。他にもたくさんいたけど、一番仲がよかったのは天山だと思います。西村さんが選挙に出馬した時も応援に来ていました。彼は話もうまいしね。クレバーで知的じゃないと、トップレスラーにはなれません。天山は常識もあるし、優しいし、西村さんと相性がよかったのかもしれません。

 そういえば、西村さんの入場テーマ曲「HEAVEN KNOWS」、本人は「もっと派手で勇ましい、天山のテーマ曲みたいなのにしたかった」と話していました。私は本人のイメージに合っていてよかったと思っていたので、驚いたのを覚えています。

――それは意外ですね。3月6日の新日本プロレス旗揚げ記念日で、西村さんの追悼の10カウントゴングがあり、天山さんが「無我(※)」のTシャツを着用していました。

(※) 藤波辰爾が主催していたプロレス興行。西村さんは旗揚げ戦に出場するなど、「ミスター無我」と呼ばれた)

柴田:今回の件で天山もショックを受けていました。西村さんは広く深く人と付き合うから、皆さんもショックが大きいですよね。ファンの方々との付き合い方もしっかりしていましたし。

 ある時、海外遠征に出かける前にファンから手紙が来たそうなんです。内容は、そのファンのお母さんが病気になって、「どうしたらいいでしょうか? 何かしてあげられることはないでしょうか?」という相談。それで西村さんは、道場近くの等々力渓谷に湧き出ている水をタンクに溜めて、出発前夜、手紙の住所の家にそっと届けたそうなんです。遠征から帰国したら、そのファンからお礼の手紙が届いていて、「残念ながら亡くなりましたが、母も大変喜んでおりました」と書かれていたそうです。

――そんなことを実行できる人は少ないですよね。

柴田:そうですね。あと、パソコンが流行り出した頃、「2ちゃんねる」で西村さんをかたる "ニセ西村" が人生相談を始めたことがあって。ニセモノが相当な西村さんファンだったのか、語り口や言葉遣いが本人そっくりで、相談する人に真面目にキチンと答えていた。それを新日本の関係者が発見して連絡したら、ニセ西村は「告訴でもなんでもしてください。本当に申し訳なかったです」と真摯に謝罪したらしいんです。

 それを聞いた西村さんは、 "なりすまし" の彼のやり取りを全部チェックしたそうなんだけど、本当に自分が言いそうな内容だったらしくて。西村さんは「真面目にやってらっしゃるから、いいじゃないですか」と不問にした上に「これからも、どんどん相談に乗ってあげて下さい」と言ったそうです。

――器が大きいですね。

柴田:西村さんはプロレスラー、関係者、ファン、東京・文京区議会関係者や地元の方々なども含め、人との付き合いを大切にしていました。3月7日の通夜、8日の葬儀告別式にも、本当にたくさんの人たちが訪れて別れを惜しんでいた。

 3月7日には新日本の後楽園ホール大会があって、リングの鉄柱が壊れたハプニングがありましたよね? あれは昔、長州力さんのWJプロレスが使っていたリングだそうです。新日本のリングは、3月9日兵庫県尼崎市大会のために移動させている最中で、(7日に使用したリングは)業者から借りたらしいんだけど......もしかしたら西村さんが、イタズラでもしたんじゃないかな、とも思ってしまいますね。

(敬称略)

(後編:西村修と藤波辰爾「無我」を巡る問題の真相 西村だけが悪者になるのは「一方的な見方」>>)

【プロフィール】

柴田惣一(しばた・そういち)

1958年、愛知県岡崎市出身。学習院大学法学部卒業後、1982年に東京スポーツ新聞社に入社。以降プロレス取材に携わり、第二運動部長、東スポWEB編集長などを歴任。2015年に退社後は、ウェブサイト『プロレスTIME』『プロレスTODAY』の編集長に就任。テレビ朝日『ワールドプロレスリング』で四半世紀を超えて解説を務める。ネクタイ評論家としても知られる。カツラ疑惑があり、自ら「大人のファンタジー」として話題を振りまいている。

【写真】ケンコバのプロレス連載 試合フォトギャラリー

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