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幻に終わったアントニオ猪木との「シルクロード決戦」プランも 西村修のプロレスラー人生を元東スポ記者が振り返る (2ページ目)

  • 大楽聡詞●取材・文 text by Dairaku Satoshi

【26歳で1回目のがん発症】

――西村さんは1990年4月に新日本に入門し、翌年4月にデビュー。当時の西村さんはどんな選手でしたか?

柴田:なかなか体重が増えなくて、「鉛筆くん」とか「もやしくん」と呼ばれていましたね。それでジャンクフードなどをいっぱい食べていたんですが、1998年にがん(後腹膜腫瘍) の手術をしたんです。ジャンクフードの食べすぎがひとつの原因だと感じて、西村さんは「体は食べたもので作られる。体にいい食べ物は何なのか?」と真剣に取り組むようになった。26歳でがんになったことで人生観が激変して、「今を大切にしよう」と考えるようになったようです。

 西洋医学だけに頼らず、東洋医学の食事療法などに興味を抱いていましたね。世界中のいろんなところを旅して、世界各地の食べ物、旬の食べ物などを口にして学んでいきました。イタリアのトマトやインドのカレー、日本ならご飯や魚を中心とした和食。食育問題に真剣に取り組むようになるにつれ、「将来、議員になりたい」という夢も出てきたようです。今でも、「議員になって食育に取り組みたい」と熱く語る姿が思い出されます。

――その後、がんはどうなったんですか?

柴田:完治したんですが、定期検診には行かないといけなかったのに、西村さんは受けなかったんですよ。いろんな人が心配して、「検診に行ったほうがいい」と言いました。小林邦昭さんも何度も克服したけど、最後はがんに倒れた。西村さんも「きちんと検査を」って忠告されていたのに、「大丈夫です! いいんです!」と突っぱねて。頑固なところがありましたからね。

 お子さんもまだ小さいし、返す返すも残念で悔しいです。昨年の初めには、自覚症状はあったみたいですね。「身体の表面にしこりができている」と話していましたから。

――しこりですか?

柴田:そうです。昨年の3月、(新日本などで活躍した)吉江豊の葬儀の日にがんの疑いがあるとわかって、「これはさすがに」と精密検査をしたら、がんだった。でも西村さんは、26歳の時に克服できたし前向きに考える人だから、今回も東洋医学で何とかできたらと考えたらしくて。でも、ステージ4だったから西洋医学の抗がん剤とか放射線治療を受け入れた。もう他に手はなかったんでしょうけど、間に合いませんでしたね。

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