白帯だった佐竹雅昭が、伝説の空手家に肋骨を折られ「本物の蹴りだ!」と興奮 その背中を追いかけて日本一に上り詰めた (3ページ目)
「日本一になりたいという思いだけで稽古していました。組手をしていた先輩たちは、皆さん強くて『とてつもなく厚い壁だ』と思っていましたが、当時の僕は恐れなかった。大会前には『とにかく、ぶち当たるだけだ』って覚悟を決めていました。
当時、取材を受けた時も『とにかくぶち当たるだけ。山を潰すだけです』と言ってましたね。誰であろうと、目の前に立つ人間を叩き潰すしかないという気持ちだけ。その時のことは、今も思い出します」
【日本一に立ちはだかった先輩たち】
そんな気迫を全開に臨んだ第4回大会は、過酷なものとなった。
「準決勝で、先輩の今西靖明さんにハイキックで倒されました。ダメージが深くて、医務室に運ばれたら眼球打撲の重傷。片方の目が見えない状態でしたが、棄権する気持ちはありませんでした。『死ぬなら畳の上だ』と思ってましたから。そのまま3位決定戦に出て、木村成克先輩に敗れて4位でした」
失意を乗り越えて迎えた1985年。ついに決勝戦に進出するも、先輩の川地雅樹に敗れて2位。翌年も決勝まで進んだが、再び川地に返り討ちにあった。
「空手家になって最初にぶち当たった分厚い壁でした」
1987年もやはり決勝に進出。対戦相手は3年連続で川地だったが、ついに勝利して日本一に輝いた。
「3度目の対戦ですから、川地先輩との戦いに慣れてきた部分が大きかったと思います。大学を卒業する年でしたし、『何としてでも勝ってやる』という覚悟と信念が背中を押しました」
正道会館で「最強」となった佐竹は、空手家を志した中学時代に宣言した「日本一」を実現した。しかし、それは新たな始まり。ターゲットは前田日明だった。
(連載4:前田日明の試合を見た佐竹雅昭は「大したことないな。これは勝てる」 UWF大ブームのなかで対戦を直談判した>>)
【プロフィール】
佐竹雅昭(さたけ・まさあき)
1965年8月17日生まれ、大阪府吹田市出身。中学時代に空手家を志し、高校入学と同時に正道会館に入門。大学時代から全日本空手道選手権を通算4度制覇。ヨーロッパ全土、タイ、オーストラリア、アメリカへ武者修行し、そこで世界各国の格闘技、武術を学ぶ。1993年、格闘技イベント「K-1」の旗揚げに関わり、選手としても活躍する傍ら、映画やテレビ・ラジオのバラエティ番組などでも活動。2003年に「総合打撃道」という新武道を掲げ、京都府京都市に佐竹道場を構え総長を務める。2007年、京都の企業・会社・医院など、経営者を対象に「平成武師道」という人間活動学塾を立ち上げ、各地で講演を行なう。
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