ブル中野がヌンチャクを武器とし男性ホルモンの注射を打ったわけ 人気絶頂の極悪同盟での苦悩も明かす (4ページ目)

  • 大楽聡詞●取材・文 text by Dairaku Satoshi

――「獄門党」を結成後、ブルさんは凶器をあまり使用せず、「闘いを魅せるプロレススタイル」に変化しましたね。

ブル:ヌンチャクは使いましたけどね(笑)。反則攻撃ではなく、プロレスでしっかり観客を沸かせたかったんです。

 当時の全女の方針は「悪役は憎まれるだけでいい」でしたけど、毎年の「全日本女子プロレス大賞授賞式」では、MVPとベストバウト賞を絶対に獲ろうと思っていました。ただ、極悪同盟の時に獲得できたのは、ダンプさんとのベストタッグ賞のみでした。

 ダンプさんが活躍している時期には、マスコミ投票でダンプさんがMVPの1位になったことがあるんですよ。ただ、会社が「MVPを悪役が獲るわけにいかない。ギャラを上げるから『なし』にしてくれ」と。その時はダンプさんも「ギャラが上がるほうがいいから」と納得しました。

 結局、極悪同盟ではMVPやベストバウト賞は獲れなかった。それでも私は、悪役でもレスラーだから、いつも「ファンの前で表現していきたい」と思っていました。だから「闘いを魅せるプロレス」をやるようになったんです。

――試合の内容は、獄門党になってからどのように変化しましたか?

ブル:実はダンプさんが現役の時から、ちょっとずつ私は変わっていきました。「極悪同盟とクラッシュギャルズの抗争だけだと未来がない」と感じていたので。

 あまりにも人気がありすぎて、何をやっても会場が沸くんですよ。手や足を上げただけでも、「キャー」と声援が起きる。カッコよくて可愛いベビーフェイスがいて、それをいじめる悪役との抗争しかできない女子プロレスは、これから生き残れないんじゃないか......。そう思ったのが17歳くらいですかね。それからは、悪役だけどレスラーとして認められるための闘いに変えていきました。

(後編:生死をかけたアジャコングとの金網マッチ ギロチンドロップを見舞う際「やっぱり怖くて、手を合わせた」>>)

<プロフィール>
ブル中野

1968年1月8日生まれ、東京都出身、埼玉県川口市育ち。170cm。1983年9月23日に全日本女子プロレスでデビュー。1984年9月13日、全日本ジュニア王座獲得。1984年10月に極悪同盟加入。1985年2月、リングネームを本名の中野恵子から「ブル中野」に改名。クラッシュギャルズ(長与千種&ライオネス飛鳥)との抗争で女子プロレスブームを巻き起こした。ダンプ松本やクラッシュギャルズが引退後、WWWA世界シングル王者として団体を牽引した。1993年から1994年にかけてWWFに長期遠征。同年11月、WWF世界女子王座を獲得。1996年に再度アメリカへ遠征。翌年、遠征中に負ったケガによりプロレスラーを引退。今年4月、WWE殿堂入りを果たした。

【写真】ブル中野インタビュー フォトギャラリー

4 / 4

関連記事

キーワード

このページのトップに戻る