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アントニオ猪木の苦境にタイガーマスク時代の佐山聡が抱いた思いと貫いた「ストロングスタイル」 (2ページ目)

  • 松岡健治●文 text by Matsuoka Kenji
  • photo by 東京スポーツ/アフロ

【猪木さんから消えかかっていた格闘技への情熱】

 さらに、佐山はタイガーマスクとして帰国した際、猪木さんの変化に気づいた。1970年代後半に「プロレスこそ最強」を証明すべく、モハメド・アリなど異種格闘技戦に挑んだ格闘技への情熱が、猪木さんから消えかかっているのを感じたという。

「(帰国前に)メキシコ、イギリスにいた時は、今のようにインターネットで情報が得られる時代ではないので、日本の情報はほとんど入ってきませんでした。なので、猪木さんが(1980年2月27日の)極真空手のウィリー・ウイリアムスとの試合を最後に、異種格闘技戦を終えたことを僕は知らなかった。

 僕がタイガーマスクになって帰国した時には、新日本に異種格闘技戦という思想はなくなっていたんです。レスラーが"飽和状態"になっていて、そんな中で現れたのがタイガーマスクだった。団体の利益なども考えないといけないし、猪木さんの『格闘技はできないんだな』という気持ちもわかりましたね。とにかく混沌としていた時代でした」

 ウィリー戦を行なった当時、猪木さんは38歳。40歳を前に、体力的にも「異種格闘技戦」に挑むことは過酷だったのかもしれない。さらに佐山は、こう指摘する。

「異種格闘技戦は、ルールに関して相手陣営と揉めに揉めますから、猪木さんの中で『これ以上、続けられない』と思ったのかもしれません。

 あとは、『ハイセル』の問題がありましたし、病気も抱えていらっしゃった。リング内外で心身ともに厳しい状況で、格闘技だけでなく、プロレスへの情熱を保つのもつらかったんじゃないかと思います」

 佐山が明かした「ハイセル」とは、猪木さんがブラジルで興したリサイクル事業「アントン・ハイセル」。サトウキビの搾りかすを牛の飼料として活用することで、食糧不足、環境問題を解決する目的で設立した会社だった。しかし、それが原因で多額の負債を抱え新日本の経営を圧迫していた。

 さらに「病気」とは、後年に猪木さん自身もインタビューや著書で明かしているが、重度の「糖尿病」を抱えていた。現役を続けるどころか、一時は命の危機にさえ追い込まれるほどの最悪の体調だった。こうしたリング内外の困難から、佐山が「タイガーマスク」に変身した当時、猪木さんはリングに集中できる状況ではなかったのだ。

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