藤波辰爾が振り返る、新日本の「別格の新人」だった武藤敬司。フルフェイスのヘルメットをかぶっての入場は「嫌がっていた」 (3ページ目)

  • 松岡健治●文 text by Matsuoka Kenji
  • photo by 東京スポーツ/アフロ

【嫌がっていた「スペースローンウルフ」】

 凱旋帰国後の初戦となった後楽園ホールでの試合でも、藤波は武藤の運動神経、それ以外の能力の高さを実感したという。

「レスラーになる前は柔道で全日本の強化指定選手に選ばれるほどの実力がありましたが、試合ではその技術をそれほど見せなかった。それほどレスリングの勘がよく、オールラウンドに何でもできる器用さがありました。足の運び、ステップはナチュラルで非常に柔軟さがあり、自分が攻めている時も反応が早いんです。それは教えられるものではなくて、"天性"だと思います。

 さらに試合のなかでも、何か新しいことにチャレンジしようという向上心があった。トップレスラーになれるかどうかは『自分で何かを作ろう』という気持ちが重要なんです。加えて人を惹きつける華もあったので、『武藤はこれから伸びる』と感じました」

 若手時代から観客をどう惹きつけるかを自分で考えていた武藤。だからこそ、新日本がつけた「スペースローンウルフ」のキャッチフレーズには抵抗していた。特に帰国した当初の、フルフェイスのヘルメットをかぶっての入場を嫌がっていたという。

「武藤という新しいスターをどう売り出すかをみんなで考えてね。若手で無名だから、ファンに印象に残るようにとヘルメットをかぶせることになったんですが......本人も嫌がっていましたけど、実は僕も『どうかなぁ』と疑問に思ってました(笑)。あと、当時は入場の時に着せられていたシルバーのジャンパーも嫌だったようです。会社は会社で一生懸命に考えていたんだけど、武藤は人が決めたキャラクターを受け入れられなかったんですね」

 会社の決定に抵抗しながらリングに上がっていた「スペースローンウルフ」時代の武藤だが、同時に前田日明が率いるUWF勢に対する葛藤もあった。それが、「熊本旅館破壊事件」につながる。

(第2回:若き武藤敬司が前田日明に「あんたらのプロレスつまらない」→旅館破壊の大乱闘。UWFに反抗した理由は?>>)

【プロフィール】
藤波辰爾(ふじなみ・たつみ) 

1953年12月28日生まれ、大分県出身。1970年6月に日本プロレスに入門。1971年5月にデビューを果たす。1999年6月、新日本プロレスの代表取締役社長に就任。2006年6月に新日本を退団し、同年8月に『無我ワールド・プロレスリング』を旗揚げする(2008年1月、同団体名を『ドラディション』へと変更)。2015年3月、WWE名誉殿堂『ホール・オブ・フェーム』入りを果たす。

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