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藤波辰爾が振り返る、新日本の「別格の新人」だった武藤敬司。フルフェイスのヘルメットをかぶっての入場は「嫌がっていた」 (2ページ目)

  • 松岡健治●文 text by Matsuoka Kenji
  • photo by 東京スポーツ/アフロ

【新日本の「暗黙の了解」を覆した別格さ】

 存在を強く認識するようになったのは、1986年10月13日、後楽園ホールで対戦した時のことだった。当時の武藤は、約1年間にわたるアメリカでの初の海外武者修業から凱旋帰国したばかり。コスチュームも前座時代の黒のショートタイツから青のロングタイツに変身し、「スペースローンウルフ」とキャッチフレーズがつけられ、新たなスタートして大々的に売り出された。

 その後楽園ホールで相手を務めた藤波は、試合をこう振り返る。

「軽快で常に動いている印象でした。僕は、どっしり構える選手よりも動きが速い選手のほうがやりやすいので、試合は噛み合った記憶があります。ただ、凱旋したばかりだからといって、武藤に花を持たせようなんて思いは一切ありませんでした。リングに上がれば先輩も後輩もない。立場は対等だから叩き潰すつもりで迎え撃った覚えがあります」

 武藤はデビューからわずか1年で渡米。若手レスラーの海外武者修業は、いわば将来的な出世へのステップだが、ほとんどのレスラーがデビューから3年、あるいは5年目で海外へ行くことがほとんどだった。そんな通例を武藤は破った。当時の新日本が、それほど武藤に期待していたことを藤波は明かした。

「長州たちが移籍して新日本が慌ただしくなり、『早く次のスターを生み出さなければいけない』という雰囲気になっていたんです。それで武藤が指名されて、『まだ早いかもしれないけど海外を経験させよう』となったんです」

 さらに武藤が別格だったのは、トップロープからバック転でボディプレスする「ムーンサルトプレス」を、前座時代から決め技で使っていたことだ。新日本では伝統的に、前座レスラーはメインイベンターが使うような派手な技はやってはいけないという"暗黙の了解"があった。ところが、武藤はデビューから5カ月後の1985年3月の試合でムーンサルトプレスを使っている。しかし藤波をはじめ、先輩レスラーたちが武藤を咎めることはなかった。

「実は、猪木さんも『前座だからこの技をやっちゃいけない』と言ったことはないんですよ。"暗黙の了解"とか言われますけど、前座のレスラーは派手な技をあえて出さないんじゃなくて、試合でできないだけなんです。僕も前座時代はドロップキックぐらいしかできなかったけど、武藤はムーンサルトができた。彼の運動神経がいかにずば抜けていたか、という証拠ですね」

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