全女の髪切りマッチに震え、高校を中退してプロレスの世界へ。高橋奈七永は闘いの毎日で「強さ」を手にした (3ページ目)
【プライベートの確執がリングに持ち込まれた時代】
アニマル浜口ジムに1年通い、全女のオーディションに合格。1996年7月14日、後楽園ホールでの中西百重戦でデビューした。その後、中西とはタッグチーム「ナナモモ」を組み、活躍することになる。
新人の試合は基礎的な技だけで、派手な技や頭から落とす大技はやらない。それでも客を満足させられるかどうかが試される。負けたら次の日は試合が組まれず、強くなければ上に上がれない。「毎日が闘い」と刷り込まれた。
年間200、250試合をこなすのは当たり前。過酷な日々のなか、草むらや坂道で試合をしたこともある。デビュー1年目の北海道巡業の時には、大会の途中でリングの鉄柱が折れるアクシデントがあった。
「アジャコングさんとかがエニウェア・フォール・マッチ(どこでもフォールできる試合形式)にして、ホントの本気で場外でやり合ったら、お客さんは大喜びで、すごい盛り上がったんですよ。どんな場所でも、どんな状況でも納得させられる。それも強さだということを勉強させてもらいました」
1997年10月、全女は手形不渡りによる銀行取引停止処分を受けた。選手が大量離脱し、残った選手たちで「新生全女」として再出発することになった。
「20歳になるかならないかくらいで、正直よくわかってなかったんですけど、『うちらがいるから、大丈夫でしょ』という自信がありましたね。上とか下とか関係ないし、やってやるっていう気持ち。でもやっぱり、出る杭は打たれるんですよ。すごい打たれる」
全女は選手間のプライベートの関係性が、そのままリングに持ち込まれていたと言われる。女の殺伐とした争いは常につきまとっていた。高橋が前川久美子とリング上で敵対していた時も、関係性は最悪だったという。だからこそ試合が組まれた時代だった。フロントは人間関係の悪さを煽ってきた。
「仲が悪いんだから、試合させなきゃ。それ以上、燃えない。ちょっと燻っているものに着火剤を入れるようなものです。試合をするって、そういうこと」
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