力道山の妻が告白。ジャイアント馬場との意外な関係とそのエピソード (2ページ目)

  • 松岡健治●取材・文 text by Matsuoka Kenji

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当時の力道山と敬子さん(写真/妻・田中敬子さん提供)当時の力道山と敬子さん(写真/妻・田中敬子さん提供) 馬場は、新潟の三条実業高校を中退し、17歳でプロ野球の読売ジャイアンツに入団。2メートルを超す長身の投手として期待されたが、一軍登板は3試合のみという成績で入団5年目の昭和30年に戦力外になった。その年に大洋ホエールズ(現・横浜DeNA)に移籍するも、明石キャンプの風呂場で転倒したケガにより引退する。

 馬場はレスラー転向を決意し、力道山の元を訪れて弟子入り。力道山も、馬場のずば抜けた体格、「元巨人」というブランドにほれ込んだ。敬子さんも「主人は、最初から馬場さんをスターとして育てるつもりだったと思います」と明かしたように、デビューから1年あまりで"出世コース"のアメリカ遠征を命じる。すると馬場は、本場のマットでメインを張るまでに成長した。

 敬子さんが力道山と結婚した当初、馬場はアメリカ遠征中で面識はなかったが、「家で団体の幹部の人を呼んで会議をする時なんかは、よく『馬場は頑張っているか。どうしている』と気にかけていました」と振り返る。夫の亡き後になって、日本プロレスのエースになった馬場との交流が生まれたが、一番の思い出は麻雀だという。

 当時、日本プロレスの事務所は東京・代官山にあった。夫の跡を継いで社長に就任した敬子さんだったが、ほどなく退任し、顧問として団体を見守った。事務所の中には「麻雀部屋」があり、この頃に会社へ行くと、馬場は幹部社員、経理士らと頻繁に卓を囲んでいたという。

「馬場さんは麻雀が好きで、よく事務所に来てやっていましたよ」という敬子さんは、馬場が麻雀に興じる姿を傍で見ているだけだったが、そのうちにルールを自然に覚えて、一緒に卓を囲むようになった。

 穏やかで冷静な馬場の性格は麻雀の手にも現れていたようで、「性格そのままの慎重派でしたけど、強かった」そうだ。それ以上に強烈な印象として残っているのが、あの大きな手だった。

「当時は全自動卓なんかありませんでしたから、すべて手で牌を混ぜるんですけど、あの大きな手で牌を回すんです。みなさんと『牌を2つ持っていってもわからないね』なんて笑っていました」

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