2018.05.01

【国際プロレス伝】猪木をヒョイと
持ち上げたアンドレに、観客ぼう然

  • 宮崎俊哉●取材・文 text by Miyazaki Toshiya
  • photo by AFLO

【第32回】アニマル浜口が語る「国際プロレスとはなんだ?」

 アメリカ進出で大成功を収め、世界のトップレスラーまで上り詰めたモンスター・ロシモフ(アンドレ・ザ・ジャイアント)。その足がかりとなったのは、国際プロレスでの活躍だった。アニマル浜口が今も鮮明に覚えているという、アンドレ・ザ・ジャイアントの試合とは――。

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トップロープをまたいでリングに上がるアンドレ・ザ・ジャイアント「大巨人」アンドレ・ザ・ジャイアント(2)

「ロシモフがアメリカに渡ったのは、1970年に来日したとき、同時期に日本にいたバーン・ガニアに認められたのがキッカケです。AWAのプロモーターでもあったガニアが『コレは!』と思ったんでしょう。ガニアはフランス系で、英語だけでなくフランス語もペラペラでしたしね。

(第3回IWAワールド・シリーズで)カール・ゴッチさんからフォールを奪ったというのも大金星でしょう。ロシモフは相当な自信をつけて、アメリカへ渡ったんじゃないですか。

 でも、ロシモフは自分を日本に呼んでくれて、アメリカへ進出するキッカケも作ってくれた吉原(功/よしはら・いさお)社長を尊敬し、ずっと恩義を感じていましたよ」

 アンドレ・ザ・ジャイアントは自著『アンドレ・ザ・ジャイアントの俺こそ・ザ・ワールド』(訳・新間寿/講談社)で『俺が今までに出会った強力なポリシーを持った人』として、「生涯を反NWAにかけた男~AWAの帝王」バーン・ガニア、「燃えるバイタリティーに満ちたマネージャー」フランク・バロアとともに、国際プロレス吉原功社長の名を挙げている。また、同書には『ミスター吉原のおかげで、俺は世界の檜舞台への切符を掴んだ』と書かれている。

 1973年にAWAを離れてWWFと契約したことにより、1974年からは新日本プロレスのリングに上がるようになってアントニオ猪木と抗争を開始。1976年10月7日には東京・蔵前国技館で「格闘技世界一決定戦」を行なうなど、五分と五分の戦いを繰り広げた。グラウンドで猪木がアンドレのぶっ太い腕にキーロックをかけたものの、そのままの体勢でアンドレが立ち上がって猪木を軽々と持ち上げたシーンは、今も脳裏に焼きついているファンも多いだろう。