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【国際プロレス伝】猪木をヒョイと
持ち上げたアンドレに、観客ぼう然 (3ページ目)

  • 宮崎俊哉●取材・文 text by Miyazaki Toshiya
  • photo by AFLO

 1986年以降、アンドレは日本から遠ざかっていたが、1990年4月13日に東京ドームで行なわれた「日米レスリングサミット」でジャイアント馬場と"大巨人コンビ"を結成。その後も全日本プロレスで戦い、1992年10月21日の日本武道館で行なわれた「全日本プロレス創立20周年記念試合」では、ジャイアント馬場&スタン・ハンセン&ドリー・ファンク・ジュニアvs.ジャンボ鶴田&アンドレ・ザ・ジャイアント&テリー・ゴディという「夢の6メンタッグ」も実現。そして晩年は馬場、ラッシャー木村らの"ファミリー軍団"にも加わった。

 国際プロレスから始まり、新日本プロレス、そして全日本プロレスと、アンドレは長く日本のプロレスファンに愛され続けたが、父親の葬儀のためにフランス帰国中の1993年1月27日、パリのホテルにて亡くなった。死因は急性心不全、享年46歳。

「大巨人」「現代のガリバー」「不世出のモンスター」「100万ドルの怪物」などと評され、カナダ進出時には「世界8番目の不思議」と呼ばれた。新日本プロレス時代には実況アナウンサーの古舘伊知郎が「巨大なる人間山脈」「ひとり民族大移動」「都市型破壊怪獣ゴジラ」と絶叫したアンドレ・ザ・ジャイアント――。

「ジャイアントプレス」と呼ばれたボディプレス、ジャイアント馬場の十六文キックに対抗して「十八文キック」と名付けられたカウンターキック、さらにはヒップドロップやヒッププッシュなど、それらの得意技は他のレスラーなら単なるつなぎ技に過ぎないが、アンドレの超人的なパワーをもってすれば一撃必殺のフィニッシュ技だった。

「早すぎますよね、46歳で亡くなるなんて。もっともっと観たかった。リングに上がっただけで、一瞬にしてすべての観客を虜(とりこ)にするレスラーなんていませんよ。もう二度と、あんなレスラーは現れないでしょう。今もビールやワインを呑みまくっているのかな。天国の酒屋さんは大繁盛ですね。ご冥福をお祈りします」

(つづく)
【連載】アニマル浜口が語る「国際プロレスとはなんだ?」

連載第1回から読む>>>

◆【国際プロレス伝】大巨人アンドレは機内でビール100本を飲み干した>>>

◆右足を切断されながら、相手に殴りかかっていった伝説のレスラー>>>

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