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【国際プロレス伝】ビル・ロビンソンが
「外国人=悪役」の概念を変えた (2ページ目)

  • 宮崎俊哉●取材・文 text by Miyazaki Toshiya

 1938年、ロビンソンは曽祖父の時代から続くイギリス・マンチェスターのボクシング一家に生まれた。少年時代はボクシングに励んでいたものの、13歳のときに飛んできたブリキの看板に当たって眼球を負傷。ボクシングを断念せざるを得なくなり、レスリングの世界に転向することになった。

 15歳になったロビンソンは、イングランド北部のウィガンでビリー・ライレーが指導するジム――通称「スネーク・ピット(蛇の穴)」に入門。そして1959年に19歳でプロデビューを果たし、ヨーロッパ各国はもちろん、中東やインド、そして南アメリカまで活躍の場を広げていった。

「国際プロレスのリングに上がった数々の外国人レスラーのなかでも、エースと言えばビル・ロビンソン。実力、人気ともにナンバー1。もっとも多くのファンに愛された外国人レスラーでしょう。

 青山の道場で会ったとき、『これが本場のクイーンズ・イングリッシュ(イギリス英語)か』と、歯切れのよさに感心したのを覚えています。絵に描いたような英国紳士、貴公子でしたね」

 アニマル浜口は初めてロビンソンと出会ったときの印象をこう振り返る。

 アメリカ人レスラーは皆、ラフな格好で来日していた。だが、ロビンソンはスーツ姿で羽田空港に降り立った。

「プライドは相当なものでしたが、ハンサムでジェントルマン。何をやっても所作(しょさ)がキレイでね。誰にでも畏敬の念を抱かせる風格というか、気品がありました」

 初来日で豊登(とよのぼり)とサンダー杉山の挑戦を退け、ヨーロピアン・ヘビー級王座を防衛したロビンソンは、1968年11月にふたたび来日して「ワールドチャンピオン・シリーズ」に参戦。このリーグ戦を制し、初代IWA世界ヘビー級チャンピオンに輝いた。

 また、シリーズ終了後もロビンソンは日本に残り、外国人でありながら国際プロレスの日本陣営で奮闘する。その結果、「外国人レスラー=悪役」というそれまでのプロレスのイメージを覆し、ヒーローとしてファンを熱狂させていった。

(つづく)
【連載】アニマル浜口が語る「国際プロレスとはなんだ?」

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