宮下遥が明かす、女子バレー日本代表での中田久美との関係 岡山シーガルズ一筋で引退した理由も語った (2ページ目)
――そこで苦しんだのは、所属する岡山シーガルズで求められるトスと、代表で求められるトスが違ったからでしょうか。どちらのバレーがいいというわけではなく、違う質のバレーの間で揺れ動いていたように見えました。
宮下:日本代表は、それぞれのチームのプレーができて、代表で求められるプレーもできる、使い分けができる選手が選ばれるところです。それができない人、私が行くからうまくいかなかった。自分が大事にしている部分は、代表でプレーしても変わらないと思っていたんですけど、ちょっとブレちゃって。そうなると、チームに戻った時の自分もブレてしまって、何が大事なのかわからなくなる時間がすごく長くなったんです。
――ひとつの策として、代表の戦術に近いチームに移籍することなどは考えませんでしたか?
宮下:周囲からは本当に何度も、「移籍したほうが遥らしくできる」「海外に行ったほうがもっとよくなる」などと言われましたが、一度も考えたことはなかったですね。「今の私があるのは岡山シーガルズと、河本昭義監督とチームのおかげだ」という思いが強かったので。
【「チームを優勝させたい」という願い最後に叶えた瞬間】
――宮下さんは「チームを優勝させたい」と言い続けていました。そしてキャリアの最後で、黒鷲旗大会を制してそれを叶えました。チームへの置き土産がチーム初タイトルというのは、すごく劇的でした。
宮下:河本監督は、黒鷲旗の開幕前に「優勝する」と言っていました。いつもは、そういうことをあまり言わない人なんです。もちろん外に向けては「優勝を目指す」と言いますけど。内に向けてそういうことを言わなかった。「優勝するぞ」と真剣なトーンで言うのは初めてだったので、「こりゃあ、頑張らなくちゃ」と思いました。
ただ、黒鷲旗のように連戦が続くと、シーガルズはなかなか体力が持たなくて、いいところまで行っても準々決勝や準決勝で終わることが多かったんです。でも今年は、主将の川島亜依美さんと、副主将の私が引退を発表したことで、最後までいい集中力が続いたんじゃないかと思います。初めての優勝だから「マグレ」と言われてしまうかもしれないですけど、監督のひと声から始まり、タイトルを獲るべくして獲れた、という大会だったと思います。
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