宮下遥が語る、バレー女子日本代表で竹下佳江と比べられた日々 リオ五輪本番は「記憶が欠け落ちている」
元女子バレー日本代表
宮下遥 引退インタビュー 前編
4月26日、15年間にわたり岡山シーガルズでプレーした宮下遥さんが現役引退を発表した。中学3年生で選手登録され、Ⅴリーグ史上最年少出場記録となる15歳2カ月でデビュー。そのシーズン終了後に日本代表にも選出された。
大きな注目を集めたが、若くして大きな期待をかけられることで悩んだこともあるという。あらためてバレーボールを始めたきっかけから、セッターに転向した理由、「竹下佳江の後継者」と言われたことの重圧やリオ五輪について振り返ってもらった。
中学卒業後に日本代表に召集されて話題になった宮下遥 photo by 坂本清この記事に関連する写真を見る
【中学からセッターになったきっかけ】
――まずは、バレーボールとの出会いから聞かせてください。
宮下:小学1年生の時に地元・三重県にあるバレーの少年団に入ったんですけど、母がママさんバレーをしているので、小さい頃からそれについて行っていましたね。一歳下の妹がいて、家で一緒にアンダーとかオーバーとかでパスするとか、"なんちゃってバレー"みたいなことをずっとやっていました。
――中学3年時に岡山シーガルズに選手登録されるわけですが、その経緯を教えていただけますか?
宮下:小学6年の時に県外でバレー教室があって、それをやっていたのが岡山シーガルズだったんです。その教室に参加した時に声をかけてもらったのが始まりです。私は当時、すでに身長が170cmくらいあったので、まあまあ目立つじゃないですか(笑)。
でも、その時は「岡山シーガルズ」というチームの存在を知らなかったし、実業団リーグがあることも知りませんでした。そんななかで、シーガルズの河本昭義監督が声をかけてくれたんですが、「熱心なおじちゃん」くらいの印象でしたね(笑)。ただ、河本監督は中学校や高校でも監督をされていて、「(自らが指導する)大阪の中学に来てみないか」とお誘いいただいたのが最初の出会いです。
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プロフィール
中西美雁 (なかにし・みかり)
名古屋大学大学院法学研究科修了後、フリーの編集ライターに。1997年よりバレーボールの取材活動を開始し、専門誌やスポーツ誌に寄稿。現在はweb Sportiva、バレーボールマガジンなどで執筆活動を行なっている。『バレーボールスピリット』(そしえて)、『バレーボールダイジェスト』(日本スポーツ企画出版)、『球萌え。』(マガジンハウス)、『全日本女子バレーコンプリートガイド』(JTBパブリッシング)などを企画編集。スポルティーバで西田有志の連載を担当