19年のキャリアに幕...天才テニス少女・森田あゆみが歩み出す指導者の道「苦労している若い選手のサポートがしたい」
森田あゆみ「引退インタビュー」後編
◆森田あゆみ・前編>>「元・天才テニス少女」が引退を決意した切実な理由
「指導者になりたいと思ったのは、ケガをしたことも大きかったと思います」
今年8月、テニス競技者からの引退を決意した森田あゆみは、穏やかにそう言った。
プロ転向した15歳時に全日本テニス選手権を制し、33歳で幕を引いた19年間のキャリア。ただ、その後半は、度重なるケガとの戦いでもあった。
かつて「天才少女」と呼ばれたその能力は、いかにして培われたのか? そして今、新たなキャリアを歩みだす彼女が、自身の経験から何を後進たちに伝えようとしているのか?
テニスとの出会いから未来の青写真までを、本人に紐解いてもらった。
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引退を決断した森田あゆみの本音は?(写真●JET田中)この記事に関連する写真を見る「テニスに出会ったのは、7歳の時です。両親が休みの日にテニスをしていたので、遊びについていったのが始まりでした。最初は地元のテニススクールに行ったんですが、1年でそこが閉まってしまったんです。それで8歳からは、高崎テニスクラブに行くようになりました。
私は最初、プロを目指すつもりとかはぜんぜんなくて。本当に遊びの延長、習い事のひとつとして始めたんです。ただ、高崎の松田貞男コーチが『この子はセンスがあるから、もっとレッスンを受けたほうがいい』と母親に言ったそうです。家からはちょっと遠かったんですが、気づいたら週に5回は通うようになっていました」
群馬県太田市出身の少女がとなり町まで足を運んだ理由は、偶然の巡り合わせだった。幸運にも駆け込んだ高崎テニスクラブは、プロ選手も輩出している地元の名門クラブ。
そのクラブに移った時、森田はラケットの握り(グリップ)を変えている。
テニスを始めた当初の森田は、フォアもバックも同じグリップ(右手が下)で打っていた。その握りを、フォアの時は右手を上に変える。このグリップでの両手打ちは、その後も変わることはなく、森田の強打を支えた。
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プロフィール
内田 暁 (うちだ・あかつき)
編集プロダクション勤務を経てフリーランスに。2008年頃からテニスを追いはじめ、年の半分ほどは海外取材。著書に『錦織圭 リターンゲーム』(学研プラス)、『勝てる脳、負ける脳』(集英社)など。