ラグビー歴2年で花園に立ったトンガ人「ホラニ龍コリニアシ」は吹奏楽部からワールドカップメンバーまで上り詰めた
語り継がれる日本ラグビーの「レガシー」たち
【第29回】ホラニ龍コリニアシ
(埼工大深谷高→埼玉工業大→パナソニック)
ラグビーの魅力に一度でもハマると、もう抜け出せない。憧れたラガーマンのプレーは、ずっと鮮明に覚えている。だから、ファンは皆、語り継ぎたくなる。
連載29回目は、日本ラグビーの歴史と深い関係にあるトンガ出身選手として歴代トップの45キャップを重ねたNo.8ホラニ龍コリニアシを紹介したい。ホラニはトンガでラグビーの才能を見出されたのではない。日本に来てからラグビーをはじめ、桜のジャージーへと駆け上がった希有な選手だった。
※ポジションの略称=HO(フッカー)、PR(プロップ)、LO(ロック)、FL(フランカー)、No.8(ナンバーエイト)、SH(スクラムハーフ)、SO(スタンドオフ)、CTB(センター)、WTB(ウイング)、FB(フルバック)
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ホラニ龍コリニアシ/1981年10月25日生まれ、トンガ・ヌクアロファ出身 photo by AFLOこの記事に関連する写真を見る ホラニ龍コリニアシのプレーで最初に衝撃を受けたのは、彼が高校2年生の時。花園の舞台だった。
東海大仰星(現・東海大大阪仰星)が初優勝した1999年度大会。その決勝の舞台で対峙したのが、トンガ人留学生ふたりのパワーで勝ち上がってきた埼工大深谷(現・正智深谷)だった。
もっとも、ボールキャリーなどで目立っていたのは、No.8のマナセ・フォラウ(現・フォラウ愛世)のほう。細身なLOのコリニアシ・ホラニはマナセの陰に隠れた存在で、ラインアウトやタックルで堅実なプレーをしていた印象が強かった。
なぜ当時は細身だったかというと、トンガで生まれ育ったホラニは16歳で日本に留学してからラグビーを始めたからだ。つまり、ラグビー歴2年に満たないなかで強豪校の中核を担っていた。細身ながら花園決勝のグラウンドに立つあたり、そのポテンシャルの高さがうかがえる。
ホラニの伯父は、元日本代表WTBのノフォムリ・タウモエフォラウ。1980年にトンガからそろばん留学生として来日し、大東文化大や三洋電機(現・埼玉パナソニックワイルドナイツ)で活躍した元選手だ。1987年の第1回ラグビーワールドカップでは外国出身者として初めて桜のジャージーをまとい、記念すべきチーム初トライを挙げた人物でもある。
著者プロフィール
斉藤健仁 (さいとう・けんじ)
スポーツライター。 1975年4月27日生まれ、千葉県柏市育ち。2000年からラグビーとサッカーを中心に取材・執筆。ラグビーW杯は2003年から5回連続取材中。主な著書に『ラグビー『観戦力』が高まる』『世界のサッカーエンブレム完全解読ブック』など多数。
























