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日本ラグビーの「鉄人」はこうして生まれた 大野均が18歳の遅咲きスタートから最多98キャップを得るまで (2ページ目)

  • 斉藤健仁●取材・文 text by Saito Kenji

【エリートに囲まれて考えたこと】

 福島県郡山市出身。兼業で酪農を営む家に生まれた。小学校4年から選んだスポーツは野球で、進学した清陵情報高でも新聞配達をしながら野球部に所属していた。

 高校では控え選手だったが、大学でも野球を続けようと考えていた。しかし、友だちに誘われたことをきっかけに、軽い気持ちでラグビー部の門を叩いた。練習後、みんなでご飯を食べたり、先輩がお酒を飲んで楽しむ一体感が気に入って、すぐに楕円球の虜(とりこ)となった。

 運命を変えたのは、地元企業への就職を考えていた大学4年生の時、福島県選抜に呼ばれたことだった。そこでの活躍が関係者の目に止まり、東芝府中(当時)の練習に参加する。そして、日本代表の名HOで東芝の監督も務めた薫田真広氏に見初められて、異例とも言える東北リーグ2部の大学からの入団が決まった。

 東芝のチームメイトは、日本のラグビー界を代表するエリートばかり。

「自分が一番下手なのは、周りから見ても明らかでした。ここで生き残るにはどうしたらいいかと考えた結果、練習から100パーセントを出さないとついていけない。

 パスやキックでは武器にならない自分がチームに貢献できるのは、努力とワークレート(仕事量)しかない。倒れて、また起きて、走って......やることはシンプル。ただ、それを突き詰めていたら、東芝でも、日本代表でも、監督が必要としてくれた」

 社会人2年目となった東日本リーグのサントリー戦でデビューを飾ると、2003年に始まったトップリーグからはレギュラーの座を獲得。黙々と仕事をこなすその存在感は、試合を重ねるごとに高まっていった。

 やることはシンプル──。ただ、それを続けた結果、東芝での公式戦出場は驚異の240試合以上。数々のタイトル奪取に寄与しただけでなく、トップリーグ・ベスト15に9度も選ばれ、2009年度はリーグMVPにも輝いた。同時に2016年からはサンウルブズでも2年間プレーし、スーパーラグビーの舞台にも立っている。

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