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日本ラグビーの「鉄人」はこうして生まれた 大野均が18歳の遅咲きスタートから最多98キャップを得るまで

  • 斉藤健仁●取材・文 text by Saito Kenji

語り継がれる日本ラグビーの「レガシー」たち
【第4回】大野均
(清陵情報高→日本大→東芝)

 ラグビーの魅力に一度でもハマると、もう抜け出せない。憧れたラガーマンのプレーは、ずっと鮮明に覚えている。だから、ファンは皆、語り継ぎたくなる。

 連載第4回は2001年から20年間、一貫して東芝(現・ブレイブルーパス東京)でプレーし続けた「鉄人」大野均。日本代表の主力として3度のワールドカップ出場を果たし、現在もテストマッチ98キャップの最多記録を保持する「均ちゃん」だ。

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大野均/1978年5月6日生まれ、福島県郡山市出身 photo by Saito Kenji大野均/1978年5月6日生まれ、福島県郡山市出身 photo by Saito Kenjiこの記事に関連する写真を見る「灰になっても、まだ燃える」

 大野均はこの言葉を胸に、42歳まで体を張り続けた「リアルLO(黙々と体を張ってタックルを繰り出す選手の愛称)」だ。日本代表になって間もない頃、韓中合作の映画『MUSA-武士-』のキャッチコピーを偶然、目にした時にピンと来たという。

※ポジションの略称=HO(フッカー)、PR(プロップ)、LO(ロック)、FL(フランカー)、No.8(ナンバーエイト)、SH(スクラムハーフ)、SO(スタンドオフ)、CTB(センター)、WTB(ウイング)、FB(フルバック)

 身長192cm、体重105kgの恵まれた体躯に、彫りの深い顔立ち──。さながら雰囲気は、戦国を生きる野武士のようだ。

「(超多忙だった)日本代表のヨーロッパ遠征(2004年)のあと、周囲から『疲れているのでは?』と心配されました。でも人間、意外に丈夫でしたね。まだ灰になっていなかった(笑)」

 日本を代表するFWとして第一線でプレーし続けた大野のキャリアは、異彩を放っている。

「ラグビーはパスが下手でも、キックができなくても、得意なもので勝負できるポジションが必ずある。自分は大学に入って、LOというポジションだったから、ここまで長くプレーできた」

 そう話すとおり、地元・福島にある日本大学理工学部に進学した大野は、その後のキャリアを考えると不思議に思うほど、18歳という遅い年齢からラグビーを始めた。

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著者プロフィール

  • 斉藤健仁

    斉藤健仁 (さいとう・けんじ)

    スポーツライター。 1975年4月27日生まれ、千葉県柏市育ち。2000年からラグビーとサッカーを中心に取材・執筆。ラグビーW杯は2003年から5回連続取材中。主な著書に『ラグビー『観戦力』が高まる』『世界のサッカーエンブレム完全解読ブック』など多数。

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