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プレースキック時の暗黙のマナーを例外化した男・今泉清 伝説の1990年 早明戦では「光の道が見えた」

  • 斉藤健仁●取材・文 text by Saito Kenji

語り継がれる日本ラグビーの「レガシー」たち
【第3回】今泉清
(大分舞鶴高→早稲田大→サントリー)

 ラグビーの魅力に一度でもハマると、もう抜け出せない。憧れたラガーマンのプレーは、ずっと鮮明に覚えている。だから、ファンは皆、語り継ぎたくなる。

 第1回・平尾誠二、第2回・村田亙に続き、選んだ選手は「今泉清」。サントリーや日本代表でも活躍したが、やはり早稲田大学時代の躍動を強烈に覚えているファンは多いはずだ。

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今泉清/1967年9月13日生まれ、東京都世田谷区出身 photo by AFLO今泉清/1967年9月13日生まれ、東京都世田谷区出身 photo by AFLOこの記事に関連する写真を見る「イーチッ、ニーッ、サーンッ、シーッ、ゴーッ!」

 183cmのスラッとした長身で、端正な顔立ちの大学生ラガーマンが、プレースキックを狙うためにボールをセットする。そしてキックの助走で後ろに下がろうとする時、会場に駆けつけたファンからは彼の歩数に合わせて、数字をカウントするコールが大合唱される。

 本来、プレースキックを蹴る時は静粛にするのが、ラグビー界の暗黙のマナーだ。しかし、今泉清が蹴る時だけは例外だった。それはまさしく、「アカクロのスター」にだけに4年間、認められていた特権だった。

 プレースキック時のかけ声は、今泉が早稲田大1年生の時の「早慶戦」で、慶應義塾大サイドからのヤジがきっかけで始まったという。

「これはヤジではなくて、みんなからの応援だと思い込めばいい」

 後ろに下がる歩のリズムは、本来もっと早かった。しかし今泉は、あえてそのかけ声のリズムに合わせて下がったことで、独特の間合いが誕生した。

 今泉の祖父は、大分県で有名な「トキハデパート」の創始者。母に勧められて、6歳から大分ラグビースクールで競技を始めた。小中学校時代はサッカーも興じていたが、浪人の末、全国レベルの強豪・大分舞鶴に進学してラグビーに専念。高校ではBKではなくFWのバックローとしてプレーし、FLのポジションで高校日本代表に選出された。

※ポジションの略称=HO(フッカー)、PR(プロップ)、LO(ロック)、FL(フランカー)、No.8(ナンバーエイト)、SH(スクラムハーフ)、SO(スタンドオフ)、CTB(センター)、WTB(ウイング)、FB(フルバック)

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著者プロフィール

  • 斉藤健仁

    斉藤健仁 (さいとう・けんじ)

    スポーツライター。 1975年4月27日生まれ、千葉県柏市育ち。2000年からラグビーとサッカーを中心に取材・執筆。ラグビーW杯は2003年から5回連続取材中。主な著書に『ラグビー『観戦力』が高まる』『世界のサッカーエンブレム完全解読ブック』など多数。

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