「将来、日本代表のキャプテンもやりたい!」ワーナー・ディアンズは高卒でプロ入り、21歳の夢は「世界一のロック」 (3ページ目)

  • 斉藤健仁●取材・文 text by Saito Kenji
  • 甲斐啓二郎●撮影 photo by Kai Keijiro

 午後は常翔学園との試合。為房慶次朗(PR/明治大4年)とか強い選手がいる代で、キックオフから相手がボールキャリーしてトライもポンポン取られ......。結果1トライも取れずに0-100で負けました。

 おかげでその夜、ミーティングが夜の12時まで終わらず、大変でした......(笑)」

── 高校2年の時はLOでしたが、高校3年からNo.8もやっていましたね。

「そうですね。高校3年の時は低いタックルにやっと慣れて、フィットネスもチームで高くなっていたから、練習もちょっとラクになってきて......。そのなかでスキル練習をできたので、うまくなったと思います」

── 高校の恩師・相亮太監督の存在は?

「すごいコーチ。自分を導いてくれた人......という感じですね。セカンドキャリアについてまだそんなに考えていないですが、ラインアウトコーチとか、流通経済大柏に相監督がいたらその下でコーチがしたいですね!」

── 今ではそう言えるほど日本ラグビーに馴染んでいますが、来日した当時はカルチャーショックもあったのでは?

「ニュージーランドの時は、学校が終わったあとの全体練習は週2〜3回で、それも1時間くらい。そのあとにタッチラグビーを30分ほどやって終わり。でも、日本では放課後の16時から19時間くらいまで練習して、その後にウェイトトレーニングもしていたので、終わるのは20時半くらい。

 だから夕食の時間も遅くなって、たまに父が(コーチ業で)遠征していると夕食の準備も面倒くさくて、コンビニでパンとか買って食べていましたね(笑)。でも、相監督の誘いで(監督の家で何人か一緒に)ご飯を食べるようになったので、体重も高校3年の時だけで10kg増えて、115kgくらいになりました」

── そのようなラグビー漬けの生活で、高校の授業にはついていけました?

「日本語の勉強をするために、1日1時間だけは違う教室に通っていました。高校3年くらいから(相手が日本語で)話すことがわかるようになったけど、上達は遅かった。一番好きな授業は体育と歴史。英語の授業では(ネイティブの発音を)先生に『やれ!』って言われたので、僕が先生になっていました(笑)」

3 / 5

厳選ピックアップ

キーワード

このページのトップに戻る