ハンドボール日本代表・土井レミイ杏利が人種差別を経験して気づいたこと (2ページ目)
練習を始めるのにもルールがある。"復唱係"は、事前に監督に練習メニューを聞きに行き、全員に伝えるのが仕事だ。ただ、復唱係が練習メニューを選手全員に伝える時は、片手をピンと伸ばして、ヒジを耳につけて言わないといけない。
「ヒジが耳についていなかったり、手がピンと伸びていないと、それだけで先輩から厳しく指摘されました(笑)。コート内に入ったら『学年は関係なし』とよく言われますけど、めちゃくちゃ上下関係があったので、気が休まることはまったくありませんでした」
それでも土井は、そんな厳しいルールや先輩たちからの理不尽な言動に耐え、ハンドボールを続けた。
「4年間、厳しいというか理不尽なことが多いなかでも、乗り越える経験ができた。メンタルは相当鍛えられましたし、怖いもの知らずになりました」
ただ、最終学年となった土井は膝の故障に見舞われ、精神的に追い詰められた。まったく痛みが取れず、最終的に実業団の誘いを断り、引退を決意。将来のことを考え、語学を学ぶべくフランスに留学した。
しばらくして膝の痛みがなくなると、「ママさんバレー的な感じ」で再びハンドボールを始めた。シャンベリーの若手チームに入り、1年が経過した頃、そろそろ日本に帰ろうかと思っていた時、土井の未来を変える連絡が入った。
それはフランスの強豪・シャンベリーから届いたプロ契約のオファーだった。
「プロ契約の話がきた時は、うれしくて携帯を落としそうになりました。フランス代表は2012年のロンドン五輪で優勝しているんですけど、その時のメンバーがチームにゴロゴロいたんです。そういうチームと契約できてうれしかったですし、自分のロッカーの隣はテレビで見ていた金メダルの選手。『こんなことがあるんだ......』って、靴紐を結ぶ手が震えていましたね」
フランスはハンドボール熱が高く、アリーナには5000人規模の観客が訪れる。土井はフランス国内でもトップ3に入るクラブでプレーし、レベルの高さに難しさを感じる時があった。
しかし、本当に意味で土井を苦しめたのは、コート上ではなかった。
「一番メンタル的にキツかったのは人種差別でした」
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