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NBA伝説の名選手:チャールズ・バークリー ストレートな表現力と力強いプレーでファンの記憶に生き続けるパワーフォワード (3ページ目)

  • 青木 崇●文 text by Aoki Takashi

【NBA王座に最も迫った1993年】

 NBAファイナルの相手はブルズ。3連覇を目指す王者に対し、サンズはホームコート・アドバンテージを持っていたが、ホームでの最初の2試合を接戦で落としてしまう。厳しい状況で迎えたシカゴでの第3戦でサンズは129対121という3度の延長戦までもつれた激戦に勝利したが、第4戦ではジョーダンが試合を完全に支配。バークリーが32点、12リバウンド、10アシストのトリプルダブルを達成したものの、ジョーダンはNBAファイナルでの自己最多となる55点を奪ってブルズを勝利に導いたのである。

 バークリーの24点という活躍もあってサンズが第5戦を勝利したが、ホームでの第6戦は、4Q残り1分4秒で4点リードの局面からオフェンスの機会を得たものの、試合終了まで1点も奪うことができず、残り3.9秒にジョン・パクソンに逆転の3Pショットを決められて98対99で敗北。土壇場で逆転負けを喫し、シーズンを終えることになった。1993年はバークリーにとってNBAタイトルを獲得する絶好のチャンスだったが、オフコートでは大親友であるジョーダンの壁を打ち破れなかった。バークリーは、のちに、こう語っている。

「あれはオレがチャンピオンシップを獲得する最高のチャンスだった。いまだにそのことを考えることがある」

 バークリーはその後もサンズの大黒柱として頂点を目指したものの、1994年と1995年のプレーオフでヒューストン・ロケッツに2年連続、ホームでの第7戦で敗北。1996年は1回戦でサンアントニオ・スパーズに敗れると、1996年8月のトレードでロケッツに移籍した。

 ロケッツではアキーム・オラジュワンと強力なフロントラインを構成すると、1997年のプレーオフでカンファレンス決勝に進出する。33歳のバークリーはユタ・ジャズとのシリーズで平均16.2点、11リバウンドと奮闘したが、第6戦でジョン・ストックトンにブザービーターの3Pショットを決められてシーズンエンドになった。

 その後は2年連続でプレーオフ1回戦敗退という結果に終わったバークリーは、1999年12月に左大腿四頭筋腱破裂という大ケガに見舞われ、2000年4月19日のバンクーバー(現メンフィス)グリズリーズ戦を最後に、現役を引退。最後の得点は、オフェンシブ・リバウンドを奪ってからのフィニッシュとバークリーらしいものだった。

「オレはこのゲームに自分が持っているもののすべてを出しきった。チャンピオンシップを獲得するヤツもいれば、優勝しないヤツもいる。しかし、オレは後悔することなんかひとつもない」

 チャンピオンシップ獲得という悲願を達成できなかったバークリーだが、NBAの歴史に残る偉大な選手だったことは間違いない。

【Profile】チャールズ・バークリー(Charles Barkley)/1963年2月20日生まれ、アメリカ・アリゾナ州出身。1984年NBAドラフト1巡目5位指名。
●NBA所属歴:フィラデルフィア・76ers(1984-85〜1991-92)―フェニックス・サンズ(1992-93〜1995-96)―ヒューストン・ロケッツ(1996-97〜1999-2000)
●NBAファイナル進出1回(1993)/シーズンMVP1回(1993)/オールNBAファーストチーム5回(1988〜91、93)/オールスターMVP1回(1991)
●主なスタッツリーダー:リバウンド王1回(1987)
●五輪出場歴: 1992年バルセロナ大会(優勝)、1996年アトランタ大会(優勝)

*所属歴以外のシーズン表記は後年(1979-80=1980)

著者プロフィール

  • 青木 崇

    青木 崇 (あおき・たかし)

    1968年群馬県前橋市生まれ。1992年から月刊バスケットボールとHOOP誌の編集者を務めた後、1998年に独立して渡米。アメリカ・ミシガン州を拠点にNBA、NCAA、数々のFIBA国際大会を取材。2011年から拠点を日本に戻して活動を続け、Bリーグの試合で解説者も務めている。

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