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NBA伝説の名選手:チャールズ・バークリー ストレートな表現力と力強いプレーでファンの記憶に生き続けるパワーフォワード (2ページ目)

  • 青木 崇●文 text by Aoki Takashi

【NBAのスター街道を上っていったが......】

 1983年にNBAチャンピオンになった76ersには、ジュリアス・アービング、モーゼス・マローンという大ベテランがいた。特にマローンの存在は、バークリーがNBAでキャリアを構築していくうえで大きな意味があった。

 バークリーは、身近なベテランを手本にして、大学時代に苦労した体重管理、試合に向けた適切な準備、体調を整えることの大事さを学びながら、1年目に平均14得点、8.6リバウンドをマークし、即戦力に。ルーキーシーズン後の夏のワークアウトをマローンと一緒に行ない、プレー全体のレベルアップを図ると、2年目のシーズンは平均20得点、12.8リバウンドまで数字を伸ばし、76ersの中心選手へと飛躍していく。

 3年目の1989-90シーズンのバークリーは平均25.2得点、11.5リバウンド、FG成功率60%の数字を残した。MVPの投票で1位票の数は最も多かったが、合計の得票ポイントでマジック・ジョンソン(ロサンゼルス・レイカーズ)に届かず2位。しかし、大黒柱として76ersが53勝29敗の成績を残す原動力となり、プレーオフでは1回戦を突破し、カンファレンス準決勝進出を果たす。翌1990-91シーズンも平均27.6点と活躍し、オールスターゲームでは17点、22リバウンドでMVPに選出。オールNBAファーストチームに4年連続で選ばれたが、プレーオフではカンファレンス準決勝で再びマイケル・ジョーダンとシカゴ・ブルズに敗れた。

 開幕直後、ジョンソンがHIV感染で引退するというニュースが世界を駆け巡った1991−92シーズン、バークリーは、チームメートのビリー・カニングハムの許可を得て、ジョンソンがレイカーズで背負っていた背番号32をつけてプレーした(バークリーは34番だった)。しかし、孤軍奮闘するも報われず。76ersが35勝47敗でプレーオフ進出を逃したことでチームに対する不満が蓄積し、シーズン終了後に首脳陣にトレードを要求するにまで至った。

 ドリームチームの一員としてバルセロナ五輪のアメリカ大陸予選を戦ったあとの1992年7月17日、ジェフ・ホーナセック、ティム・ペリー、アンドリュー・ラングとの1対3の交換トレードで、フェニックス・サンズへ移籍したのである。

「フィラデルフィアで持っていたすべてを捧げたが、そこでは勝てないとわかっていた。フェニックスへの移籍は、自分が最高レベルで競争するために必要だった」

 こう語ったバークリーは、ジョンソン、ラリー・バード、ジョーダンらと一緒にプレーしたバルセロナ五輪で金メダルを獲得。そして新天地で迎えた1992−93シーズン、司令塔のケビン・ジョンソン、シューティングガードとして台頭したダン・マーリー、ベテランのダニー・エインジとトム・チェンバースらが存在感を発揮した総合力の高いチームを牽引。62勝20敗とNBA最高成績を残す要因になったことで、バークリーはレギュラーシーズンのMVPに選出された。

 プレーオフではロサンゼルス・レイカーズとの1回戦が2連敗からの3連勝、シアトル・スーパーソニックスとのカンファレンス決勝が4勝3敗と厳しい戦いを勝ち抜いていく。バークリーは、特にソニックスとの第7戦では44点、24リバウンドと大爆発するなど、NBAファイナル進出の原動力になった。

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