NBA伝説の名選手:パトリック・ユーイング ニューヨーカーを熱狂させた1990年代を代表するビッグセンター (2ページ目)
【ニューヨーカーたちを熱狂させた全盛期】
1985年のNBAドラフトは、ユーイングが全体1位で指名されることが確実視されていた。1966年にスタートして以来、No.1ピックの権利は勝率が最も低いチームに与えられていたが、この権利を得るために全シーズンの後半に負け数を増やそうするチームを出さないため、NBAはプレーオフに出られなかった7チームにチャンスがある抽選方式で上位指名権を決めると施策を導入した。
これがドラフト・ロッタリーである。現在は厳重な警備の下で1から14までの番号が振られた14個のピンポン玉を機械に入れ、引かれて出てきた4つ球の数字の組み合わせを持っているチームに1位指名権が与えられるが、当時はコミッショナーが透明なケースに入った封筒を順番に引き上げていく形だった。
このロッタリーで幸運を手にしたのは、スーパースター候補を待ち望んでいたニックスで、ユーイングに対して10年間3200万ドル(現在のレートで約48億円)で契約を締結。温厚な性格からNBAの水になかなか馴染めない部分もあったというが、1年目から平均20.0得点、9.0リバウンドを記録するなど期待に応え、新人王に選出された。それから13シーズン連続でユーイングは20点以上のアベレージを残し、大黒柱としてチームを牽引。大都市・ニューヨークにあるニックスでプレーすることについて、ユーイングはこう語っている。
「マジソン・スクエア・ガーデンでプレーすることは、他のアリーナとまったく違う。ファンは情熱的で知識も豊富。自分が持っているすべてを出すことを期待している。ニューヨークはタフな場所だけど、そのことが自分をよりタフにさせる。街とそのファンの人たちは、毎晩ベストを尽くすようにあと押しするんだ」
ゴール近辺で支配的なプレーを見せるユーイングは、マンハッタンを席巻する映画のシーンに準えつつ、同時に敬意も込めて「キングコング」との異名を持つようになる。初めてプレーオフの舞台に登場した1988年以降、ユーイングはニックスでNBAチャンピオンシップを獲得するためにハードに戦い続けていく。しかし、大学時代から全米の頂点を争ってきたジョーダン、そしてオラジュワンらが、その前に大きく立ちはだかった。
ジョーダン擁するシカゴ・ブルズには4度プレーオフで敗れ、特に1993年はカンファレンス決勝で地元で2連勝と先手を打つもその後4連敗を喫し、NBAファイナル進出を目前で阻まれた。それでもジョーダンがメジャーリーグ挑戦で引退していた1994年にブルズの4連覇を阻止。ユーイングはニックスのNBAファイナル進出の原動力になった。王座をかけたオラジュワン率いるヒューストン・ロケッツとのシリーズでは、平均18.9点、12.4リバウンドと奮闘したが、ニックスは3勝2敗と先に王手をかけながらも、敵地での第6、7戦で惜敗し、NBAの頂点に立つことができなかった。
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