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NBA伝説の名選手:パトリック・ユーイング ニューヨーカーを熱狂させた1990年代を代表するビッグセンター

  • 青木 崇●文 text by Aoki Takashi

ニックスの顔として歴史に名を刻んだユーイング photo by Getty Imagesニックスの顔として歴史に名を刻んだユーイング photo by Getty Images

NBAレジェンズ連載26:パトリック・ユーイング

プロバスケットボール最高峰のNBA史に名を刻んだ偉大な選手たち。その輝きは、時を超えても色褪せることはない。世界中の人々の記憶に残るケイジャーたちの軌跡を振り返る。

第26回は、1990年代のNBAを代表するセンター、「キングコング」の異名で知られるパトリック・ユーイングを紹介する。

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【全米屈指の選手として活躍した高校・大学時代】

 1980年代から90年代にかけてのNBAには、チームの大黒柱となるビッグセンターが多く存在した。ニューヨーク・ニックスで1039試合に出場し、背番号33が永久欠番となっているパトリック・ユーイングもそのひとりである。

 ジャマイカのキングストンで生まれたユーイングは、12歳の時に家族全員でアメリカのマサチューセッツ州ボストン郊外に移住するまで、サッカーやクリケットをやっていた。バスケットボールを始めたのはアメリカに移住してからだったが、ケンブリッジ・リンジ&ラテン・スクールでマイク・ジャービスコーチの指導を受けると、わずか数年のプレー経験で全米の高校トッププラスの選手へと成長。1979年からチームをマサチューセッツ州ディビジョン1で3連覇を達成する原動力になった。

 ユーイングはノースカロライナ大、UCLAといった多くの名門校から勧誘されたが、元ボストン・セルティックスのセンターだったジョン・トンプソンコーチが指揮するジョージタウン大への進学を決断する。トンプソンは当時のNCAAで少なかった黒人ヘッドコーチだったことが、ユーイングの決断に大きく影響した。


「コーチは、私にとって父親のような人物だ。彼は、バスケットボールが人生そのものではなく、人生の一部にすぎないこと、バスケットボールがいつか終わり、次の章に備える必要があるといつも私たちに言っていた。それは私が人生を通して持ち歩いてきた教訓なんだ」

 213cm(7フィート)のユーイングはセンターとして、1年生からチームの主力となり、ジョージタウン大史上初となるビッグイースト・トーナメント優勝に貢献。1982年のNCAAトーナメント(全米大学選手権)を順調に勝ち上がっていき、ノースカロライナ大と決勝で対戦することになった。トンプソンコーチは、相手に脅威を感じさせるための戦略として、ユーイングにゴールテンディング()になっても構わないからショットをブロックするように指示。結果、ゴールテンディングのコールは、前半だけで5回も数えた。

*シュートとして放たれたボールに、頂点から落下し始めてからディフェンスが触れる反則。その場合、オフェンス側の得点が認められる。

 ジョージタウン大は残り1分を切ったところで1点をリードしていたが、ユーイングと同じ1年生で、のちにNBAプレーオフで激戦を繰り広げることになるマイケル・ジョーダンに残り16秒に逆転のジャンプショットを決められてしまう。直後のオフェンスでチームメイトがパスミスのターンオーバーを犯したことで、ユーイングとジョージタウン大は62対63で優勝を逃した。

 NCAA屈指のセンターとして注目されるようになったユーイング。2年時のNCAAトーナメントはまさかの2回戦敗退を喫したが、3年生となった1983-84シーズンには、平均16.4点、10リバウンド、3.6ブロックを記録し、オールアメリカン・ファーストチームに選ばれた。ジョージタウン大はそのユーイングに率いられるように、ビッグイーストの公式戦とトーナメントの両方を制しただけでなく、NCAAトーナメントではのちにプロでもライバル関係を築くことになるアキーム・オラジュワンを擁するヒューストン大を84対75で下し、初の全米王座に輝いた。

「以前の我々も(全米王座まで)本当に惜しいところまで来ていたけど、ついにその壁を突破して勝てたことはすばらしい気分だ。それは一生忘れられない瞬間だった」

 こう語ったユーイングはNBAにアーリーエントリーせず、4年時も大学でプレーすることを決断。夏にはアメリカ代表としてロサンゼルス五輪に出場し、ジョーダンと一緒に金メダルを獲得する。ジョージタウン大は1984−85シーズンの大半をランキング1位で過ごし、ユーイングもAP通信の全米最優秀選手に選出される活躍を見せた。2連覇を目指したNCAAトーナメントでも決勝に勝ち上がったが、ビラノバ大相手に64対66で惜敗。ユーイングは14点、5リバウンド、3ブロックと奮闘したものの、2連覇を目前にしての敗戦で大学のキャリアを終えたのである。

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著者プロフィール

  • 青木 崇

    青木 崇 (あおき・たかし)

    1968年群馬県前橋市生まれ。1992年から月刊バスケットボールとHOOP誌の編集者を務めた後、1998年に独立して渡米。アメリカ・ミシガン州を拠点にNBA、NCAA、数々のFIBA国際大会を取材。2011年から拠点を日本に戻して活動を続け、Bリーグの試合で解説者も務めている。

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