横浜F・マリノスからのオファーを断りアフリカへ 中町公祐がサッカーと支援活動の「二刀流」で挑んだ4年半

  • 栗原正夫●文 text by Kurihara Masao
  • 竹谷郷一●写真 photo by Takeya Kyoichi

世界こんなところに日本人サッカー選手(7)ザンビア(前編)

 いまやサッカー日本代表メンバーのほとんどは海外組となった。昨年のカタールW杯では登録メンバー26人のうち、実に19人がドイツやフランス、イングランドなどサッカーの本場"西ヨーロッパ"でプレーする選手だった。この事実は、日本サッカーのレベルアップのひとつの象徴かもしれない。

 ただ、サッカーはスポーツのなかで最もワールドワイドであり、盛んなのは西欧だけではない。環境や求めるものは、その土地によって様々。世界中のあらゆる地域でプレーしている日本人選手を追った。

 2019年1月、それまで7シーズンに渡ってJリーグ横浜F・マリノスのMFとしてプレーしてきた中町公祐が新たなチャレンジを発表し、少なくないサッカー関係者を驚かせた。

 驚かせたのは、当時33歳だった彼がクラブからの2年の契約延長を断っただけでなく、その移籍先が未知なるアフリカのザンビアだったからである。正確には、横浜FMを退団した時点で移籍先は決まっていなかったが、程なくしてザンビア1部リーグ(ザンビアン・プレミアリーグ)のゼスコ・ユナイテッドへの移籍が発表された。しかし、それから約4年半、37歳となった現在まで、中町がザンビアでプレーし続けてきたことは、アフリカ行きを聞いたとき以上の驚きと言っていいかもしれない。

 中町とアフリカの最初の関わりは2013年だった。慶應大学時代の友人が運営するアフリカの子どもたちの教育を支援するNPO法人を通じてサッカーボールを送る活動を始めた。

 2018年には、ロシアW杯期間中のJリーグのオフを利用し、ガーナを訪問。初めてアフリカを訪れたことは、転機になった。2015年に生後間もない息子・彪護(ひゅうご)くんを亡くすという辛い経験をしていた中町にとって、アフリカの幼い命の生存を脅かすリスクが日本に比べ桁違いに高いことは看過できない問題だった。

 2018年は横浜FMにとってアンジェ・ポステコグルー体制1年目で、中町もチーム内での役割や立ち位置の変化を感じていた時期。まだプレーヤーとしての自信はあったが、以前から社会貢献活動に関心があった中町は、サッカー選手として元気なうちにアフリカに渡り、選手と国際支援活動の"二刀流"を志すことがベストな選択と判断した。

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