ミラン&インテル、ヨーロッパの舞台から消える屈辱からの復活。CL準決勝で熱いダービーが帰ってきた (2ページ目)

  • 利根川晶子●文 text by Tonegawa Akiko
  • 山添敏央●写真 photo by Yamazoe Toshio

【誕生した時からライバル関係】

「マドンニーナ」とはミラノ大聖堂の尖塔の上に立つ聖母像のこと。ミラノの象徴であり、かつてはこの聖母像以上の高さの建物を作ることは禁止されていた。これは第二次世界大戦中にムッソリーニが決めたもので、飛行機がミラノを目指す時、最初にこのマドンニーナが目に入るようにするためだったと言われている。戦後、この法律はなくなったが、その後も聖母像より高いビルが建てられるたびに、像の複製が屋上に設置されている。

 インテルとミランはその誕生から、ライバル関係にあった。1900年にミランを創設したのはイギリス人だった。そのため選手には多くのイギリス人がいたが、その後イタリアでサッカーが普及するにつれ、「外人選手よりもイタリア人選手を」という風潮が生まれてくる。ミラン内部でも外国人選手の登録で意見が割れ、そこで1908年、「より多くの外国人選手を使いたい」と思う一派がミランから出ていき新たなチームを作った。国際的なチームということでその名は「インターナショナル・フットボールクラブ」。それがインテルだ。

 ミラニスタ(ミランファン)に言わせると「神がアダムの肋骨からイブを作ったように、ミランの肋骨からインテルは作られたのさ」ということになるらしい。またこうしたいきさつからイタリアではインテルとミランの関係を「従兄弟同士」と称したりする。

 両チームはサポーターのカラーも違った。インテリスタ(インテルファン)はどちらかといえばブルジョワジーが多く、ミランは労働者階級に支持されていた。スタジアムへの行き方も、インテリスタはバイクだが、ミラニスタはトラムと言われ、インテリスタはミラニスタのことを"カッシャヴィト(ミラノ弁で「ねじ回し」の意)"と呼び、一方ミラニスタはインテリスタのことを"バウシャ(ミラノ弁で「うぬぼれ屋」)"と呼んでいた。

 1970年代にミラノが経済的に発展すると、サポーター間のこうした階級や職業の差はなくなっていったが、イタリアのドラマや映画に出てくるミラニスタも決まって労働者階級だ。政治思想的にはインテリスタが右で、ミラニスタが左と言われていたが、これも右派のシルビオ・ベルルスコーニが1986年にミランの会長になってからは薄れていった。

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